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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente) (1983)

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Titelpagina van Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)
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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)

(1983)–Georgi Arbatov, Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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[pagina 120]
[p. 120]

1 十月革命とアメリカ

- 十月革命に対するアメリカの態度をどうみるか。A アメリカ人は当時ほとんどが、今日よりもはるかに田舎者で、わが国で起こったことをまったく知らないか、せいぜい漠然と知っているにすぎなかった。関心と共感を示したのは、比較的政治意識のある知識人や労働者であった。アメリカの新聞記者ジョン・リードはロシア革命見聞記『世界を揺るがせた一〇日間』のなかで、そうした態度を象徴的に伝えている。ついでながら、これはあの時の歴史的出来事について書かれた最良の本の一つである。

 

政府とマスコ・ミを含むアメリカのより広範な政治的エリートについて言えぱ、その態度には容赦ない敵意があった。右翼については言うまでもない。政治的指導層のなかの比較的「啓発された」グループの間でさえ、わが国の新しい社会は永遠に、歴史の私生児として扱われる運命にある不義の子とみなされていた。こうして、社会主義とソビエト・ロシアについてのアメリカ人の抜きがたい態度が生まれる基礎ができたのである。

伝統的ソ連観の発生

- そのような見方が今でも支配的だということか。

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[p. 121]

A そうだ。この伝統的態度がソ連に対する現在のアメリカ人の行動のなかで依然、一定の役割を果たしている。皮肉なことに、それぞれの民族には革命を起こす固有の権利、すなわち武器を取って立ち上がり、その社会、政治制度に必要な変革を加える権利があるという命題を早い時期に、しかもきわめて明確に提示したのは、アメリカの独立宣言だった。しかし一九一七年には、ロシア革命へのアメリカの対応を決めるに当たって、建国の父たちの英知は生かされなかった。

アメリカ政府がロシ革命をどう考えようと、その敵意が時を移さず行動となって現われなかったなら、われわれにとってたいした問題ではなかった。アメリカはソ連の革命を圧殺しようとする諸国連合に積極的に加わり、アメリカ軍がわが国の北部と東部への侵略に参加した。

さらに重要なのは、ソ連の内戦の間、アメリカが革命の敵に融資提供や武器供与を含む大規模な援助をしたことである。アメリカはコルチャック提督〔帝政ロシアの反革命派の提督〕、アタマン・セミョーノフらの反革命指導者たちを公然と支援し、ロシアの新政府を転覆ざせようとして、約四〇億ドルを使った。

- しかし一部のソ連専門家は、実際にはその新政府が世界革命の脅しをかけ、対外関係の

多くを断絶することによって、むしろ西側の敵意を招いたのだと主張している。A 世界革命という考えについては、すでにその点についてのレーこンの立場に触れた。革命がロシ

アの対外関係にもたらした変化についていえば、帝政ロシアが植民国であると同時に、自らも西側の半植民地だったということを念頭におかなければならない。

第一次大戦では、英仏協商棚がドイッ皇帝とその同盟国と、帝国主義的勢力として競い合うなかで、何百万というロシア人を兵士に使った。ロシア国民は、自分たちの本当に必要としているものや利益とは相反する、まったく不当な目的のために利用され、搾取され、死んでいくのだと強く感じていた。

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そのような感情が、一九一七年の革命を起こした主な要因の一つだった。したがって、レーニン政府がまず最初に手がけたことの一つは、ロシアを戦争から離脱させ、フランス、イギリスなどの国々に、さまざまな形で半植民地的に依存している状態を解消することだった。

だからといって、ソ連が世界に背を向けたり、世界が社会主義にならないかぎり関係を拒むということではなかった。われわれはあるがままの世界とつき合うことを望んだ。とはいっても、ソ連が求めたのは平等な条件でつき合うことであり、わが国の経済や資源への主権を確保し、外国銀行の利率ではなく、わが国の利益に基づいた外交政策を持つことだった。西側との関係を民主的にしようと努力したのだ。またアジア諸国との関係も変えた。その一つとして、アジアにおける帝政政府の植民地 的請求権をすべて放棄した。

- しかしロシア革命政府は、外国との関係樹立を望む意思を明確に表明しただろうか。A もちろんだ。革命のそもそもの初めに、正確に言えばその二日目に、アメリカを含むすべての国に対して、戦争を終わらせて和平交渉を始めるまうアビールを出した。その後間もなく、アメリカとの正常な関係樹立を提案した。続いて一九一八年五月には、相互利益に基づく経済関係の樹立を提案した。

レーニンはロシア駐在のアメリカ赤十字代表団の団長、ロビンズ大佐を通じ、アメリカに通商特権を与え、そのほかの通商関係も樹立する計画の概容を説明した書簡を送った。だが回答はなかった。わが国の駐米通商代表、L・マルテンスはアメリカの実業家たちと両国間の経済関係について活発な交渉を開始し、一九一九年末までに三二州の企業約千祉と関係をつくった。マルテンスに米実業界の大部分がソビエト・ロシアとの通商に好意的だとの印象を持った。契約も数多く調印されたが、アメリ カ政府が介入し、マルテンスを「好ましからざる外国人」としてアメリカから追放した。

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- オクシデンタル石油会長、アーマンド・ハマーがソ連に行ったのはその頃か。A そうだ。彼は新生ロシアと取引関係を結んだ最初のアメリカ人の一人だった。ハマーは自分から進んできたが、われわれに歓迎した。その後、ソ連はそのほかのアメリカの実業家にも、経済関係を開くため来訪するよう一般的な招請状を出した。外国会社との取引は約三〇億ドルの巨額に達するはずだった。

レーニンは対米関係を重視した

- それは最近の米ソ間取引の一年分以上に当たる。A そうだ。現在のドルには当時の価値のかけらほどしかないということを考慮しないとしてもだ。西側との通商の可能性は大きかった。革命の初期から、アメリカを含むすべての国との間で経済関係を発展させることが、ソ連の公式の政策だった。

レーニンは当時「特にアメリカとの間で」とまで強調していた。レーニンがアメリカを特に重視したことには、幾つかの理由がある。アメリカの産業の規模と効率のよさは重要な要因だった。またこの当時、ヨーロッパとの関係が対米関係よりも悪かったという事情もある。さらにレーニンは、ソ米間の経済関係を十分に発展させることが政治的に重要なことを認識し、この関係が世界の安定と平和にとって欠かせない条件になると考えていたと思う。

- この早い時期に、ほかにはどのようなアメリカの実業家がソ連政府から取引を認められ

たのか。

A ハリマン一族を含め、かなり大勢いた。

-W・アベレル・ハリマン〔米政治家、元駐ソ大使、元ニューヨーク州知事〕がソ連に経済権益

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を持っていたのか。

A ハリマン家の企業は大規模なマンガン鉱山を経営していた。

- しかし、アメリカ政府はソ連への敵対的な態度を変えなかった。A まったくその通り。アメリカは「赤ん坊はベピーベッドのなかで絞め殺せ」という当時のウィンストン・チャーチルの助言に従おうとしたあらゆる連合に参加した。軍事介入で目的を達成できない

となると、西側は経済ボイコットと外交的不承認という政策をとった。これは多少消極的になったとにいえ、ソ連国家を認めないという同じ態度が別の形をとったにすぎなかった。基本的な考え方は同じだった。つまり、ソ連の存在そのものが、一九二〇年当時のコルピー米国務長官の言い方によれば、「ほかのすべての偉大な文明国の政府を転覆しなければ成り立たない」のであり、このような国家と西側との間に共通の基盤などありえない、というものであった。コルビーはこのような敵対国と の正常な関係樹立を正当化するような利害の一致はない、とも述ぺている。

- だがソ連の指導者たちもアメリカを敵対国と見たのではないか。A アメリカ側の敵意と侵略的態度に対して、ソ連政府がもっと強い姿勢をとることもできたのは明らかだが、両国関係を正常化しようとする努力はやめなかった。先のコルビー長官の言明に対して、当時のソ連の外務担当人民委員、ゲオルギー・チチェリンは次のように回答している。

「コルビー氏は、ソ連で資本主義制度が支配的になった場合にだけ、両国間に正常な関係を持てると信じているが、これは間違いもはなばだしい。われわれはそうした考えとは逆に、両国の社会、政治制度が正反対であるという事実にもかかわらず、完全に適正で、合法的、平和的、友好的な関係を樹立することが、現在でもロシアと北アメリカ双方の利益にとって不可欠だと考える。このような関係は、両国間の通商発展と両国の経済的要求を満たすうえで必要である」(ロシア・ソビェト社会主 義連邦

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[p. 125]

共和国外交人民委員から在外大使あて電報、一九二〇年九月一〇日.五二〇号.ソ連外交政策資料第三巻、モスクワ、一九五九年、一七六|七七べージ)

しかしアメリカの政治指導者たちが同様の結論にたどり着くまでには、長い年月がかかった。

- どう見ても、新しい関係を熱意をもって始めようとしているようにはみえなかった。

A 私は政府の政策について述ぺてきたが、これはもっと広い状況から見れば、そのほんの一部にすぎなかった。アメリカ政府とは違う見方をしていたアメリカ人が多いことを承知していたし、アメリカ人の善意や現実的取り組み方、本当に寛大な努力を示す例はたくさんある。ソ連はアメリカ国民から物質的援助も受けたが、それを忘れてはいない。一九二〇年代初期、わが国が飢餓と大変な経済困難に見舞われた時には、アメリカ人約一万人が「ソビエト・ロシア技術援助協会」のあっせんでソ連に来 た。わが国の再建を手伝うため来てくれたのだ。アメリカ人とソ連の労働者、専門家が協力して農園などの事業の建設に力を尽くした。アメリカ国内では、こうした目的のため多額の基金が集まった。

- そのアメリカ人たちも旅券没収の脅しをかけられたのか。A 当時、アメリカ国内に広まっていた反共ヒステリーを考えると、彼らは実際、大変な個人的危険を冒した。しかし連帯の気持ちと、ほかに例をみないロシア革命の実験への強い関心があまりにも強かったのだ。

同時に、アメリカ実業界では、ソ連との取引がもうかるということを知る人たちが増えていった。ソ連がこの人たちに有利な条件で契約を申し出ると、彼らはやって来た。当時、ソ連と取引したアメリカ人実業家の総数は二千人に上った。三〇年代初めまでに、アメリカの会社約四〇社がソ連で営業し、そのなかにはフォード・モーター社やゼネラル・エレクトリックのような巨大企業も含まれていた。

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[p. 126]

アメリカ人労働者、専門技術者数千人がわが国で働いていた。ゴーリキー市にソ連初の自動車工場を建設するのを手伝ってくれた人たちのなかには、後にアメリカの労働運動で重きをなしたウォルター・ルーサー〔元全米自動車労組(UAW)委員長.元産業別労組会議(C10)会長〕とビクター・ルーサー〔ウォルター・ルーサーの弟〕もいた.また、ソ連最初の大規模水力発電所の建設を援助してくれたH・クーバー氏のように、わが国の位の高い勲章を授与された人もいた。

一九三一年には、アメリカの工業設備輸出総額の実に四〇%がソ連向けだった。同じ年、専門技術者約四千人をソ連に来て働くよう招請し、一○万件以上の応募申し込み書を受け取った。両国間の協力の歴史で、本当に輝かしい一ベージだった。良識と経済的利益の一致は、困難な時代に互いに最大限の打撃を与えようとする衝動よりも強いことが証明された。要するに、ソ連はアメリカの経済恐慌の困難を和らげる手助けをし、アメリカの実業家と専門技術者はわが国の経済建設に貢献してくれたの である。

- 現在、アメリカには失業者が何百万人もいる.ニューヨーク・タイムズにシベリアで働

く労働者を募集する広告を出したらどうだろうか。A西側でシベリアについて持たれているおかしなイメージからすると、そんなことをすれば大騒ぎになるだろう。だがまじめな話、ソ連はそれ以上の、もっと幅広い提案をしている.われわれは両国間の通商、経済関係の正しい発展を妨げる障害をすべて取り除きたいと思っている.これだけでも、アメリカ国内に新しい職を何千もっくり出せる。もちろん、真の緊張緩和によって経済が非軍事化されれば、雇用も現在より大幅に増える。緊張緩和が もたらす経済的影響が積み重なれば、アメリカをはじめ西側諸国の全般的な雇用事情は大きく改善するだろう。

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[p. 127]

一九三三年の転換点

しかし.ここで歴史に話を戻したい。一九二〇年代から三〇年代初めにかけて、将来の緊張緩和につながるような好ましい前兆が現われたが、それは長続きしなかった。一九三一年には通商関係に困難が生じた。アメリカ国内で、ソ連における「信教の自由」をめぐるキ†ンぺーンが始まった。それは近年見られるものとよく似たものだった。また「ソ連のダンビソグの脅威」についてのキャソペーソも起こり、続いてソ連に対して差別的な通商法令が導入された。ソ米貿易に激減した。

- しかしその後、一九三三年にはようやく外交関係が樹立された。あれは転換点だったの

ではないか。

A そう、少なくとも二つの点ではそうだった。第一に、将来、正常な関係を築くための基礎ができた,第二に、ホワイトハウスの態度が変わり、新しい出発点に立ったことを意味した。ホワイトハウスは一六年間にわたる不承認政策を経て遂に、ソ逮が存在しないかのように振る舞うことをやめたからである。フランクリγ・D・ルーズベルト大統領とわが国の外務担当人民委員マクシム・マクシモビッチ・リトピノフが書簡を交換した。

アメリカ側の主張で、双方はお互いの内政問題に干渉しないことを厳粛に誓った。そのうえ双方は、それぞれ自分たちの政府が支配したり従属させたりしている組織に対し、直接的にしろ秘密裡にしろ、相手国の国内の平和、安寧、治安を損なうような行動をとらせないことを約束した。禁じられたこの種の行動のなかには、相手国の政治的、社会的秩序を力ずくで変えることを目的とする扇動と宣伝も含まれていた。今日では、アメリカ側がソ連に対する破壌活動、たとえば「ラジオ・リパティ」 や「自由ヨーロッパ放送」の活動をまったく正常なものと考えていることを、記憶にとどめておく価値があ

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[p. 128]

る。アメリカはあの両国間の相互承認協足に違反して.ソ連に対し、ありとあらゆる秘密あるいは半ば秘密の作戦を企ててきた。

- ソ連はアメリカに対して.そうしたことは何もしていないということか。Aわれわれは.いま触れた一九三三年の文書の規定を完全に守って、「公然活動.秘密活動を問わず.アメリカの平穏.財産.秩序.治安を少しでも害するような」行動を奨励していない。また「アメリカの領土.属領を問わず,アメリカの領土保全を侵犯したり、力ずくでアメリカ全体やその一部の政治的秩序を変革したりすることを目的とする扇動または宣伝」(「一九三三年のアメリカの対外政策」第二巻.ワシントン,政府刊行物出版局.一 九四九年.七〇六ページ)もしていない.

- 第二次世界大戦の影響で関係が緊密になったと思うが。A確かにそうだ。あの戦争はソ米関係でまことに注目に値する時期だった。あの数年は、両国の政治指導者,軍部の間に緊密な協力関係が生まれ.両国国民の間の友好感情.兄弟愛とさえいえる感情が前例のない高まりを見せた。こうしたことはすべて.民族の記憶に痕跡を残したと思う。

当時.アメリカ人.特に戦闘に参加した人たちは、ソ連のとてつもない戦争努力に非常に感謝していた。私はC・L・サルツパーガーが回想録のなかで引用しているあるドイツ駐留米軍野戦司令官の命令の一節を覚えている。それは「ロシアの兵士や民間人が何百万人もわれわれの命を救うために死んだ。そのことを忘れるな.もし宣伝を聞いてロシア人を憎みたくなったら、よく考えてみよ。彼らは君たちのためにも死んだのだ」(C・L・サルッパーガ-A Long Row of Candles 二ユ-ヨ-ク、ニューヨーク.一九六九年.三〇七-三 〇八ページ}というものだ.こうした気持ちが消えてしまったのは、何年にもわたる冷戦と、集中的な反ソ洗脳のせいだ。

- しかしハネムーソにも影がさしていた。

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[p. 129]

A もちろん、問題や困難もあった。アメリカ側は何度も約束したのに、西ヨーロッパに第二戦腺を開くのを二年間も遅らせ、その結果、ソ連の人命が数多く犠牲になった。この遅れがわが国の国民の間になにがしかの苦々しい気持ちを生み出したのは当然だ。

アメリカとナチス・ドイツの間では幾つかの秘密交渉も行なわれた。わが国の歴史家の一人が最近立証したことだが、アレン・ダレス〔元CIA長官。第二次大戦中、CIAの前身、戦略事務局(OSS)に所属〕はスイスのベルンでナチスと話し合っていたし、トルコのアンカラでは別の接触もあった。いま振り返ると、原子爆弾の開発がソ連に秘密にされたという事実も無視しがたいことだ。しかし両国関係全体を差し引き勘定すれば、収支は間違いなくブラスだったし、第二次大戦後の関係改善の基礎として役立つ はずだった。


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