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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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[p. 166]

19 佐藤方哉

佐藤方哉助教授は一九三二年十月二十七日に生まれ、一九五七年に慶応義塾大学文学部心理学科を卒業し、引き続き同大学大学院に学んだ後、母校で教鞭を取り今日に至っている。専門は実験心理学であり、考え方からすればスキナー主義者だと言えよぅ。日本心理学会および日本動物心理学会の会員である氏は、またコスモブレィンの名で知られているユニークな研究チームに参加しているが、このグルーブの活動の詳細は、後に対談の中に出てくる、佐藤助教授の語ったところによれば、今日の日本には、一億を後に超える 人口に対して、四千人前後の心理学者がおり、これはァメリヵ合衆国の約四万人に次ぐ世界第二位の数であると言ぅ。佐藤助教授には、『行動病理学ハンドブック』『行動理論への招待』などの著作があり、またコスモブレィンの著作としては『判心術』が知られている。

 

あなたが一九七一年以来、その一員でいらっし中るコスモブレイン・グルーブとは、正確に言えば何なのでしょぅか。

 

そぅですね。その半数は心理学者で、半数は心理学の実際面への応用に関心を持っているビジネスマンです。

 

この十人の専門家からなるグルーブの目標は何ですか。

 

わが国の一般の人々は、いわば常識的心理学には強い関心を持っています。新聞や大衆雑誌は、この種の容易に理解できる心理学的説明でいっぱいです。他方、科学的な心理学へのょり立ち入った試みにはあまり関心が向けられていません。

 

心理学は若い人々の間に人気のある学問ですか。

 

私の推定するところでは、たぶん日本には約四千人の職業的心理学者がいます。そしてその多くは大学で研究

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や教育をしています。他方、例えば臨床心理学といった仕事に従事している人は、日本ではまだそれほど多くありません。わが国の社会医療制度の中では、臨床心理学者という職業は専門家として保護されておりません。つまり、医師免許に当たるものがないため素人でも精神分析をやってかまわないのです。言いかえれば、日本の伝統的なアヵデミックな心理学は。本質的に実験心理学です。この種の学者達は知覚過程や学習過程等々に関心を持っていますが、人間の精神や行動や社会の現実的な諸問題には興味を示さない のです。

 

それは日本の伝統によれば、男性も女性も自分の情緒的な問題を自分自身の心の中にとどめておくことを好むからでしょうか。

 

そのことと関係があるかもしれません。

 

人々は自分が情绪面での問題を持っていることを恥ずかしく思い、それを外の人から隠してしまうというわけですね。しかしそれは医者に対してもですか。

 

そのとおりです。

 

だとしますと、コスモブレィン・グルーブの真の目標は......

 

人間行動や人間社会の現実の諸問題を研究し、また、その働きをできるかぎり広範な大衆に説明することです。私どものねらいは、現代心理学を今日の社会の現実的な諸問題と直接接触させることにあります。そして、これらの問題をもっと人々に近づきやすいものとし、人々がそれを吟味し理解できるよぅにするところにあります。言いかえれば、われわれの今日の現実を現代の心理学的な手法によって精密に検討してみるところにあります。

 

それでは、コスモブレィンはこの種の問題に関する正しい認镟を、日本のよリ広範な大衆に持たせよぅと努めているわけですね。

 

そのとおりです。それが私どもの重要な目標の一つです。

 

それではあなた方はまさしく現代日本社会における現実に注意を集中していらっしキるわけですね。

あなた方のグルーブが発足してからの三年間に、公衆の間にグルーブの存在を広める点て、何らかの成果

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[p. 168]

をあげてきたとお考えでナか。

 

残念なことにそれほどの成果はありませんでした。日本人は科学的な思考方式や科学的分析のシステムに関心を持っているようにはみえません。自分自身や他人についてもっとたくさんの知識を得ることには興味がないのです。もちろん、人々の間には通常の表面的な接触はあります。しかし人々はお互いの問題を深く吟味することはしないのです。

 

少なくともあなた方の発見の若干は出版されているでしようか。

 

『判心術』という書物を出しましたが、まだ学問的に充分とは言えません。もう少しまとまつたものは、たぶん今から二、三年先のことになるでしよう。

 

精神医学者のホセ・デルガード〔本書第一卷対談38参照〕は、現代科学にとっての最も重要な課題は、この爆発的に拡大する社会から個人を守ることだと信じています。

 

デルガード氏の見解に全く贊成です。

 

それでは、この二十世纪の最後の時期において、その技術・経済社会を爆発的に拡大させた日本は,個々の若い日本人の心を守ることに成功しているという感じをお持ちですか。

 

それは非常にむずかしい問題です。現代は、確かに非常に危険な状況にあります。若者達の中には、自分達の心の故郷は日本ではなくアメリヵであるとロにするものが少なくありません。しかし、だからといって彼等から日本的なものが全く失われてしまったとは思われません。ただ言えることは、彼等が変わりつつあるということでしょう。おそらく、真に、最も困難な問題は、文化をそれが破壊されることから守りながら、新しい時代に即したものに変えていくことでしょう。文化なしには人間は人間として存在することをやめてしまいます。

 

確かにアメリカのポップ・アートやロック音楽やジーバン等々の、著しい流入があるようですね。日本のテレビをみてもそのことは明らかです。こういったものは、日本の独自の文化にどのような影響を及ぼすでしょうか。

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それは実際非常に危険なことです。とはいえわれわれの社会は著しい一体社会であることを知る必要があります。日本文化が独自なのは、その均質的な形態のためです。あなたもよくご存知のように、近代化と世界社会への参加に先立って、日本列島には鎖国の歴史があり、そこでは士農工商という区別が一応ありながらも他のアジア諸国にみられるような諸社会階級への分裂がなされなかった点に、この文化的独自性の理由があります。

 

他のアジア諸国とは、ィンドのような国のことですか。

 

例えばそうです。あるいはョーロッバ諸国にみられるような、と言ってもかまいません。この基本的な同質性には非常に深くかつ強いものがあるので、われわれのうちの誰かが、例えばアメリカの習惯やアメリカの音楽に影響を受けた場合には、他の全ての人々を自分の方に引きつけてしまいます。おそらくそれはほとんど無意識の過程でしょうが、ともかくそういうふうなことが起こります。生活様式についても同様です、若者の服装からコカコーラの飲用に至るアメリカ的生活樣式、あるいは安易な生活態度が、日本では便 利なものと考えられています。あるいはB・F・スキナー〔本書第一卷対談7参照〕のことばを使うならば「強化」的なのです。特に第二次大戦の後でほとんどの日本人が腹をすかせ将来に対してほとんど何の希望をも持っていなかった時に、アメリカ人がチョコレートやタバコを持ってやって来ました。これが日本の生活への、アメリカの影越の始まりです。日本の社会には、事実、単一の層しかなく、したがってわが国の社会の一部が衰退し没落し始めたとすると、他の部分から強い支持を受けることはなく、ひたすら下り坂をこ ろげ落ちて行くことになるでしょう。他方、他の社会では、ある部分が衰退しても他の部分によって支えられ持ち上げられることでしょう。

 

それではあなたは、現代の日本人は内面的な感情あるいは内面的な強さの充分な発展を欠いているとおっしキリたいのですか。

 

そうです。さっきあげたようなアメリカからの輸入物は、われわれに快楽を与えてくれるにすぎません。喜び、つまり人間的な生きがいは与えてくれません。快楽とは、つまるところ動物的な生活のレベルのものです。喜びは人間を真に人間として動かします。

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[p. 170]

まるで詩人にお話をうかがっているようです。こういった側面もやはリ、コスモブレィン・グルーブの研究の中に含まれているのでしょうか。

 

まだ系統的に含まれているわけではありません。

 

日本人はその実用主義において実用的である、ということですか。

 

われわれ日本人には二つの面があります。われわれは時に実用主義的であり、時に超実用主義的になります。

 

あなたの研究グルーブは、日本人の心について、特にどのようなことを考えていらっしゃいますか。

 

私どもは、現在われわれが住んでいるがままの世界を心理学的に分析してみました。私どもは現実、つまり日日の生活を分析しょうと試みたのです。誰にでも明らかなょうに、今日の社会には二つの大きな流れがあります。その一つは科学の進歩であり、今一つは個人解放とでも呼ぶことができましょう。個人は日本の場合には、今や過去の封建制度から解放されています。アメリヵ合衆国は、この方向への発展の適切な例です。なぜならば、アメリ力人は植民地権力であったィギリスからの解放を成し遂げたあと、彼等なりの 特殊な自由の形体を獲得したからです。私どもの思ぅに現代の危機的状況は、個人の解放と、われわれのまわりにいたるところにみられる科学の急速な発展との間の働突によって引き起こされています。高度に発達した現代技術の結果、人間は機械によってますます使用され、統御されてさえいます。

例えば、最近私はバリに行ってきましたが、そこで地下鉄が日本とは違った形で励かされているのをみて、ショックを受けました。東京では、地下鉄の扉は列車が停止した時自動的に開きます。みんな扉が開くのを待っていて、それから外に出ます。バリでは、地下鉄の扉は乘客が押し開けることに気がつきました。言いかえますと、もぅ一度スキナーの言葉を借りれば、バリの人々は地下鉄の乗降の際に日本人よりも多くの『オペラント活動』を行なっているのです。現代が持つ都合の悪い点は、個人のためのオペラント行動 の余地が急速に失われつつある点です。

 

言いかえれば、あなたのおっしゃリたいことは,近代社会は人々のためにあらゆることをしてくれ、個人

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[p. 171]

の創意工夫の余地がほとんど残されていないように思われる、ということですね。この種の状況は、人間人格の発展を、どのような形で一層損うことになるとお感じですか。

 

個人の創意工夫、あるいは「独創的オペラント行動」の余地が残されていない場合は、人間はますます、全く受身の存在となって行きます。「オペラント行動」とは有機体の側から環境に脚きかける行動ですから、人間はそれを通じて创想工夫を発揮し、能動的となり、现境に対して積極的に適応して行くようになります。人類の歴史の発展は「オペラントの歴史」です。人間はオペラント行動によって、現在あるような人間となったのです。しかし、オペラント行動が失われる時、人間は機械の単なる付属物となることでしょ う。

今日のわれわれが非常にたくさんの選択の余地を持っていることは、一見、明らかです。われわれはいわゆる「自由」な選択ができます。実際、選択すべきことは非常に多いのです。何をすればいいのでしょうか。一つを選ぶことは、他の多くを捨てることです。ですから現実には、われわれには選択することができません。決定に到逹することをためらいます。あまりにも多くの可能性の中からどうやって選べばよいのでしょうか。ある意味では、もはやわれわれはどのような意思決定を行なえばよいかがわからなくなってい るように思われます。こうしてわれわれは「オペラント欠如時代」に向かって動いて行きます。

封建時代は、われわれには選択の余地がありませんでした。わが国の伝統的な手工業をとってみましょう。各人はある一つの特別なことを学び、同じことを何度も何度も繰り返す以外に何の選択の余地も持っていませんでした。

 

同じことを世代から世代へ缲リ返したわけですね。

 

そのとおりです。しかし今日の現代社会では、そういった手工業の專門家を見出すことはもはや困難になっています。私が申し上げたいのは、人間は動物よりも後れた存在になったことは認めるとしても、人間が動物を超えることができたのはなぜかをより立ち入って検討すベき時期がおそらくきている、ということです。人類の主要な特色の一つは言うまでもなく言語です。ここでスキナーの理論との関係が出てきます。弁別刺激という概念

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[p. 172]

がそれです。弁別刺激とは「オペラント行動」の手掛りとなる刺激のことです。

問題は次の点です。すなわち弁別刺激が全く存在しない状況に対して、人間はどのょうに反応するか、また動物はどのょうに反応するか、という問題がそれです。人間はその種の刺激を自らつくり出すのに対し、動物はそういうことをしません - その種の形態の最も低次のものを別にすれば - 。このことは、人間では発逹のきわめて初期の段階からみられる何かを「指さす」という行動が、高等なサルにさえみられないという事実からも明らかです。弁別刺激の創出が可能だというのは、次の二つのことを意味します。言語と創造性 がそれです。われわれは、言語を持っているために、例えば環境の記述が可能になります。あるいはスキナーの言葉を使えば、それはわれわれが「言語オペラント」を持っていることを意味します。現境との関係で言えば、われわれは創造能力をもまた持っています。言語の助けを借りて、われわれは文化を創出します。

 

それはノーム・チョムスキー〔本書第一卷対談42参照〕ですね。

 

私は、チョムスキー対スキナーという形で物事を考えるべきではないと思います。チョムスキーは、スキナーとは異なる言語の側面を考えているのです。チョムスキー自身は、言語の目的は、単にコミュニヶーションだけではない、ということを強調しています。スキナーとチョムスキーは、このょうな点では考え方を一つにしています。それはちょうど、スキナーとコンラート・ロレンッが、おそらくその背景を全く異にするにもかかわらず、人間の発展における文化の重要性を共に認識する結果になったのと同様です。

 

たった今こんなことを思いつきました。ロレンツの研究の多くは、ガチョゥの研究に基礎を置いている。スキナーはその生涯の半分をハトをみて過ごした。他方毛沢東は八億の生きた人々を相手にして活動してきた。これらの「実験」の中のどれから、あなたとしては適切で実際的な結論が引き出せるとお考えですか。

 

その三人の中では、私はスキナーを選びます。

 

しかもあなたもお気づきのように、スキナーは社会

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[p. 173]

をブログラムすべくファシストの接近法を用いている、といって非難されています。マーガレット・ミード〔本書第一巻対談4参照〕は、私との会話の中で「誰がスキナーをブログラムするの」と叫びました。言いかえれば、スキナーの理論は、オーゥェル的な偉大なる指導者(ビッグ・ブラザー)をどうしても必要とレています。達いますか。

 

それは確かにスキナーを理解できるかできないかの決定的な点です。ある人々にとっては、スキナーはあたかも神の役目を果たしたがっているかのようにみえます。しかし、これは決して彼の真の意図しているところではありません。スキナーの基本的な論点は、有機体とその環境との間の相互作用にあります。スキナーの信ずるところでは、われわれは環境に対してできる限りオペラント的に行動すべきです。スキナーによれば、環境は「よいオペラント行動」を淘汰して残します。この点で人間が失敗すれば、人間は滅びて しまうでしょう。スキナーは「誰が誰をブログラムするのか」といった、環境を離れて人間の「主体性」を重視する思想こそが危険だと説いているのです。

「よいオペラント行動」とは環境と調和した行動のことですか。

 

三つの主要点があります。「自分にとってよいもの」、「まわりの人にとってよいもの」、そして「文化にとってよいもの」がそれです。それを一つでも無視すれば,残りも破壊されてしまうでしょう。これらには、時代を通じてほとんど不変なものと、時代と共に変化して行くものがあることに注意しなければなりません。したがって、守るべき教えは次のようなことになりま - 全ての人間一人一人が、自分にとってもまわりの人にとっても、自分の属する文化にとってもよいと思ったことは、何であれすぐ実行せよ。

 

しかし、依然として気になるのは毛沢東とスキナーとの比較です。両者の間の一つの重要な相違は、毛沢東は人類の四分の一を指導して住んで行ける社会をつくる力を持ち発展させたのに対し、スキナーは本を書き、地下室てオルガンを弹き続けているだけだ、という点に主としてあリはしないでしょうか。

 

この世は、理論家をも実践家をも必要とします。一人

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[p. 174]

が両方を兼ねる必要はありません。実は、毛沢東はスキナーの技法を応用しています。彼がそれを充分自覚しているかどぅか私は知りませんが、彼の技法そのものはスキナーのそれに非常によく似ています。

 

洗脳についてもですか。

そのとおりです。毛沢東は人間にとって非常に効率的な洗脳システムを発展させました。スキナーはそれに理論的根拠を与えています。

 

もしも雅かが生存を促進することに成功したとしたら - 結局のところこれがスキナーの人生における主目的でした。つまリ人類の存続がそれてした - それは毛沢東と彼の小さな赤表紙の語録であって、それが中国人を生き返らせたのだと思われます。

 

おつしやるとおりです。

 

あなたはスキナー教授の理論的背景をなしていると同じものによって、非常に強く導かれているよぅにみえます。

 

そうですね。私がスキナーの理論に強く资成する点は、オペラント行動の決定的な重要性に気づくことにより、人生における愛と美の認識であるとか、人間の生存にとっての条件としての環境に対する鋭敏な感受性の必要などが導かれるからです。人間のオペラント行動がもはやこれ以上強化されないとすれば、それはまさに人類の終わりを意味することでしょう。

 

あなたは人類に対して、楽観的なのですか、それとも悲観的なのですか。

 

私は悲親論者でも楽観論者でもありません。われわれ自身を今日にあらしめた稹極的なオペラント行動を、一人一人が更に押し進めることにより滅びてしまうものとすれば、われわれはおそらくどうしようもないことだと諦めるでしょう。しかし、その原因が、一人一人がだんだんオペラント行動を行なわなくなって行くことによるとすれば、そのために人類を滅びさせるのは非常に残念なことです。無気力な人間がだんだん増えて行くように見える現状からすると、いつの日にか人間は、原始的な動物の状態に帰り、それが人 間の終わりとなる、ということが充分あり得そうです。

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[p. 175]

マスコミの課題ないし義務は、何でしょうか。

 

マスコミには、オペラント行動を弱めてしまうような傾向があります。例えばあなたがローマ・クラブについてつくられたようなテレビのブログラムも、それだけでは、問題意識のない人を目党めさせることはできません。マスコミとは一方的なコミュ二ヶーションだからです。

 

フィードバックがない。

 

それは強化を伴わない行動です。

 

スキナー流の言い方では、テレビは必ずしも「正の強化」をもたらさない、ということですか。

 

テレビはオペラント行動を強化することがありません。テレビに向かう時、人は大抵は受身です。テレビの画像に呼びかけていた子供も、強化がないのでいつしかそれを止めてしまいます。それが受身の行動をのみ刺激するものとなれば、有害なものとなります。したがって、オペラント行動を維持するためには、人間は非常に早い幼児期から、積極的であり充分活発であるように、条件づけられなければなりません。もちろん、これは大人、特に両親の責任です。われわれが子供に与えている保護は、実際非常に悪いものです 。危険でさえあります。それは活動的な方向に向かう子供逹の発逹を壊してしまうでしょう。

 

つまリ、それは子供達を受動的にするのでナね。

 

例えばテレビは、教育を受けた大人にはよいものとなり得ますが、成長中の子供にとっては破壊的な作用をするものだ、と思います。

 

アメリカでは若者や非常に小さな子供達でさえ、一日平均して六時間から八時問をテレビの前で過ごすことをご存知でナね。

 

それは非常に危険なことです。それは受動的で非才べラント的な行励を生み出します。

 

現代のマスメディアは、読者や視聴者の行動の積極的な強化を促進するのに役立ち得るとお考えですか。クイズ番组を放送することによってではなくて。

 

人々には自分で考えることを教えなければなりませ

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[p. 176]

ん。人はテレビをみながらでも自分の頭脳を積極的に働かすことはできます。思考はスキナー流の言い方をすれば、「非顕在的オベラント」であり、つまり、思考しながらテレビをみることができます。

 

言いかえれば、マスコミは読者やテレビの視聴者が自主的な思考を行なう方向に、もっと動いて行かねばならないというわけですね。人々を自ら考える人間にするにはどうしたらいいでしょうか。

 

条件づけによります。

 

どのようにしてですか。

 

あらゆる望ましい行動はただちに強化されなければなりません。あらゆるオペラント行動は、それを行なった直後に環境にどのような変化が生じるかによって、その後のその行動の頻度が増えたり減ったりします。強化とは、行動の頻度を增やすように働く環境の変化のことを言います。人間にとって最も重要な強化の一つは、他人に認められるということです。ですから、「考える人」をつくるには、子供の頃から、考えるという行動をしたらただちにまわりの大人がほめてやることが大切です。

それではわれわれの教育システムの全体を革命するにはどうしたらいいでしょうか。

 

一つの方法は、子供達に事物を創り出す甚びを覚えさせることです。子供逹は、自分自身の手を使って何かをしなければなりません。同時に他人が何かを創っているブ口セスをみるょうにさせなければなりません。

 

ああ、ここでまた封建時代からの手工業にかえってきましたね。

 

事実、この側面こそローマ・クラブが積極的に考慮すべきものだと思います。また、彼等が非常に強く指摘すべきことは、きたるべき危機があなたや私にとって、私の家族や隣人にとって、何を意味するのかということだと思います。

 

現にそれがわれわれの直面している真の危後です。この地球上のあらゆる個人の上に,それはやってきます。

 

ローマ・クラブが調べあげるべきことは、人類が直かれている危機とは個人個人の行動のレべルで考えた時に

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[p. 177]

結局のところ何なのか、ということです。その危機が、あなたや私にとって、家族・学校・コミュニティにとって何を意味するかということです。人類などという抽象的なレべルで物事を考えること自体に現代の危機があります。われわれはコミユニティを「共同体Ga naar margenoot+」として考えることを学ばなければなりません。日本人は、過去の封建性のおかげで、この方向については、非常によいスタートを^つているとも言えます。もつとも、今日街中での日本人をみていると、彼等が小さな村落共同体システ ムから生まれてきたとは、とうてい言えそうにもありませんが。

 

お囯の人々はよそ者に対して、私のような訪問者に対して、どちらかと言えば冷淡なことに気づきましたよ。

 

必ずしも冷淡なのではありませんが、これは日本文化の重要な側面かもしれません。たぶんわれわれは見知らぬ人に対して一種の垣根をつくっているのです。日本人は、自分自身をきわめて身近で個人的な世界に閉じ込めてしまいます。その小さな世界の中では、われわれはしばしばお互い同士、非常に緊密な関係を結びます。しかし、それ以外の世界は、物理的にも心理的にも全くの別世界なのです。そのょい例が、自分の家や庭などはたいへんきれいなのに、野球のゲームなどの後で、考えられないほど大量のゴミの山が残 されてしまうことです。何だってそうですが、物事には二つの側面があります。ですから、このことは必ずしも悪いことだとは言えません。われわれが今日なすべきことは、われわれが過去に持っていたものを吟味し、われわれの文化を考え直してみるための努力をすることです。われわれの文化の持つ建設的な諸側面を分析し、それに新たな活力を与えることです。日本語の「甘え」という言葉の意味をご存知ですか。

 

いいえ。

 

「甘え」とは、実際には言葉を使わないでうちとけた感情を伝えることです。言いかえれば、私に話しかけられた人は、私が言葉を用いずに伝えたいと思うものを、理解することが期待されているのです。われわれ日本人は、自分の最も内面的な感情を自分自身の内部に、心の中に潜めています。自分の世界内に住んでいる人は、それを感じとつてくれるはずなのです。ですから、自分の

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[p. 178]

世界外の人々には、しばしばわれわれは、自分を表現することに非常な困難を感じます。

 

あなたのご意見ては、外国人が日本を研究し、あなたのお国の、非常に特殊なやリ方や文化を少しでも理解するきっかけをつくるために、なナベき最も適切なことは何でしょぅか。

 

一つの方法は、日本の「演歌」を理解することです。例えばわれわれ、少なくとも私は、ョーロツバの音楽は非常に機械的なものだと惑じます。これに対して日本の伝統的な邦楽は、流行の「演歌」にその多くが繰り返し現われてきます。おそらくやはり人為的に創られたものではありますが、それでも日本人の微妙な心の色合いを発散しています。ともかく、私の信ずるところでは、伝統的音楽の理解は、日本をょり多く理解する鍵となり得ます。

 

日本の若者の目は開けていて、あなたが今ご說明なさったよぅな事柄のいくつかを自覚しているとお感じですか。

 

残念なことに、人々はその環境 - その中に自分が住んでいる世界 - が変化するほど速くは変わりません。

 

彼等をして再び環境と調和せしめること、これがわれゎれの課題ですね。

 

全くそぅです。そしてこの点については私は悲観論者かもしません。

(公文俊平)

margenoot+
レマインツヤフト

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