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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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18 アレックス・N・レオンティエフ

アレックス.N.レオンティエフ(Alex Nikolajewitsj Leontiev)教授は一九〇三年にモスクヮで生まれた。彼はモスクヮ大学を卒業したその年に心理学研究所に入った。一九二六年以来彼はソ連邦科学ァヵデミーの共産党教育大学でも教えている。彼の最初の本は一九三一年に出版された『記僚の発逮』である。一九三二年から三五年まで教授はゥクラィナ科学ァヵデミー心理神経部の部長を務め、その間ハリコフの教育大学で講義した。彼は一九四五年モスクヮ大学の心理学部の学部長に任命された。教授は国際心理学会の副会長でもある。一九六 三年、彼は『心理の発達』といぅ著番にょつてレーニン賞を受けた。最近彼はレーニン勲章も授与された。彼との対談は、編者がソ連訪問中、モスクヮ大学の事務所で行なわれた。

 

ワレンティナ・テレシコワ女史はかつて、ソ連の若者は、国は彼等を必要としておリソ連全体のために、未来社会をつくるために若者は特別の任務を持っているということを、幼年時代から教えられていると強調 していました。

 

先ず最初に、私は女史の意見に全く资成します。わが国では、若者は自分達が必要であること、彼等は社会全体に役立っており、かつまた若者の活躍が非常に要求されているということを充分意識しています。これは全く真実です。しかし、この問題をあまり単純化してはいけません。役に立つという自覚(もしこの言葉を使用してよいなら)ということは教育を通して涵養されなければなりません。実際私達の教育の全組織は必要性と有用性の感情を深めることを目指しています。私達は若者が社会の発展に充分に参加でき 、かつ創造的であるように教えます。私達は彼等が世界の創造に参加することを強調する、と言うべきでしょう。この点は最も重要な側面です。私達は彼等の発逹段階の特定の時期に関してのみ強

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調しているのではなく、それだけでは充分ではないのです。この考えはむしろ結果です。つまり初期の学校教育の適当な年齢から思春期を通り大学教育の最終年齢までの全過程の結実としてみるべきです。

この点をもっと正確に言いますと、あなたは若者が社会へ参加する際にみられる成長の形式の問題については触れませんでした。あなたはまた、学習過程を管理する人や、彼等が社会を創造する際にいかに補助するかについても触れませんでした。それゆえ、この問題は今はとばしましょう。

 

これは、あなたからうかがう埸ですから、私はただお聞きナるだけなのです。

 

心理学者の立場ょりもむしろソ連社会の一員として、一言述べさせてください。私にとって重要なことは、若者が社会一般の創造活動に参加する種々の形式の問題です。これは、心理学の観点からしても、極度に蜇要なことです。明らかなことは私達の活動は多種多様であり、それらは私達が今問題にしている創造的参加の多様な形式を示しています。

 

あなたは全地球的規模の社会の創造について言っているのですか。

 

いいえ。さしあたってはソ連社会内の発展に限定したいと思います。つまり社会主義社会の創造についてです。あらゆる種類の異なった活動が全て必要です。例えば工業、農業、科学に従事する労働者の活動があります。更にサービス業、つまり医学、商業、輪送、行政その他があります、歴史的観点からすれば、あるいは、より正確に換言すれば、ある社会の歴史的過程において一種の社会的階層が形成されました。同様にそれらの活動の評価も発展しました。つまり、ある活動は他のそれよりもより高い評価を受けるよ ぅになります。一般的に言って全ての活励は社会全体にとって等しい価値を持っていません。これが一般人の運命を決定します。これが歴史的々事実だと思います。したがって私達はこの階層自体を変えなければなりません。私達は新しい価値判断を創造しなければなりません。ではこの新しい価値の基底にある一般原理とは何でしょぅか。それは私達の活動の質、生産性です。この認識に基づいて政治的行動が生まれるのです。

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例をあげましょう。農業、工業の分野における労働者の日常的労働、これらの広い範囲にわたる多様な形態を評価する可能性が生まれます。あなたが私達の新聞を読むことができるなら、評価(すなわち報酬)に区別があることに気づかれると思います。労働の評価については、社会のごく単純素朴な仕事から非常に複雑な科学的仕事に至るまで充分な配慮がなされています。

基本的には全ての労働者は同じ基準に照らして評価されます。時に矛盾も生じます、例えば学位を持った大学卒の技術者のサラリーが同一の分野の熟練工より安い場合があります。これは労働を評価する際、理論や技術で評価するのではなく、実践そのものによってなされることを意味します。したがって価値基準は労働の質 - あるいは、そう言いたければ、創造的衝動 - によって決定されるのです。おわかりですか。これはわが国の社会深い変化を引き起こします。

たいていの国の出版界ではいわゆる偉人についてはありふれたことを書いています。いかがでしょうか、將軍、行政家、政治家等に関して報道しているのではありませんか、私達の国の新聞を調べてみるとわかりますが、普通の職業に従事している人々の記事がいつも記載されています。例えば鉄道路線の修理工についての記事などです。私達はこの点、公共性を大切にします。ある人間のやっている仕事は他のいかなる人の仕事にも劣らず重要です。私達はこのような記事を報酬だと考えています。公表性は世論を形成す る土台となるべきです。あらゆる人が威信を与えられるべきです。そのために、例えば私達は最上級の静養所を用意していますが、科学者、作家、労動者、手仕事に従事する男女、その他いかなる人でも利用できます。階級社会では、特殊の階層の人々が尊敬されて、その人々のみに静養所が利用されていますが、私達はこういうことは行ないません。これが他の社会と私達の社会の基本的相違です。しかし他の社会にある偏見や古い価値観が私達の社会の家族の中にもなお残存しており、これが困難をつくり出しているこ とも認めます。例えば親達の中には、子供達を社会の上層の部類に登らせたいと願っている者がいます。しかし実際には上級階級は私達の社会には存在しません。

 

私達资本主義社会で生活している人間にとっては、ソ連が完全に階級のない社会てあるとは信じられません。

 

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私は階級という言葉の正確な定義が絶対に必要だと思います。社会主義社会では相互に矛盾する階級は存在しないと主張しています。つまり相互に対立し搾取する階級は存在しません。同様に榨取を許すような階級はありません。実際こういう階級はソ連では存在していません。私達は、相互に敵対する階級を持っていないということは、最も重要な側面であると考えています。例えば労脚者グルーブ、ィンテリゲンチャ(私達は知識人をこう呼んでいます)等異なったグルーブはありますが、これは階級とは全然違います。都市 地域の市民や農民人口といった相違はあります。これらの間の格差は大きいのですが、それはだんだん減少しつつあります。その理由は何でしょうか。それは第一にある地域における経済的事情にもよりますし、また農業の近代化にかける努力にもよります。あなたもみてご存知のように、私達の村落に行きますと都市にみられるのと同じような大きな建物が建っています。一昔前までは村落部に典型的だったィズバと呼ばれている貧弱な小屋は不断に、着実になくなりつつあります。そして都市家庭にあるいろいろな設備が 整えられたモダンな住居に置きかえられつつあります。電気は辺地にも普及しつつあります。

 

電話はどうですか。

 

すでに着手しました。内乱が終わってすぐに国中に電話ネットヮークをつくろうと試みました。この仕事は不断に加速化されています。

 

しかし人々の間に知能差による不平等が常に存在していませんか。そうすると廊下を掃除するしか能のない低いIQの人々はどうなリますか。

 

これは非常に複雑な問題です。これが何を意味するかを真に理解しなければなりません。肉体的相違のように人間の生物学的相違は常に存在します。これらの相違は個人差に基づいています。いろいろな個人的方法によって全てが評価される階級社会においては特にそうです。しかし平等は社会・経済的観点からみると個人のあらゆる発達の基礎です。というのはこの平等は個人形成ばかりでなく、個人が更に発展するための機会を与えますが、特定の個人の特定の性格をつくるために必要なものではないのです。最も悲しい ことは、一定のモデルをつくって人間をある特定の方向にブログラムすることです。それは特定の階級やグルーブから区別して平均的人

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間を形成するのに役立つだけです。

有名な「アメリヵ市民」を例にとりあげてみましよう。実際にはそんな人間は存在しませんが、しかし人間はステレオタイプをつくろうとします。「アメリヵ市民」なるものが、人々の心の中に宣伝され鋳型にはめ込まれ固定化されていなければなりません。これは一種の平等をつくり出しますが、それは全く戦傈すべきものです。もし個人的可能性を発達させるための真の平均的平等があるならば、個人は真に自分を主張しますし、彼の创造的可能性を十全に発逹させることができます。

今まで私は知力の変化について述べました。しかし、各人の活動や職業的質の平等は、次のような考えに関連づけて理解すべきだと信じます。最も根源的平等、つまり、社会階層が存在しないという意味での平等(これについて私達は語り合っていたのですが)は、まさに、その単一の階層内での平等を許すのですから、それは、個人の能力のあらゆる意味での発達を許す平等です。このような豊かな発達はどこから生じるのでしょうか。対照として、今話している悪名高いIQをとってみましょう。この場合、種々のテストや不完 全な手段で、人々が種々のランクに分割されてしまいます。IQ制度を確立すれば人間は非常に一方的に調查され判断されます。個人はいくつかの精神的機能に基づいてのみ観察されま收す。彼の深層心理に関しては表面的部分しか観察できません。正確に言いますと、形式的に区分けされるのです。個人の遺伝ブログラムに現存しているものは、外界から得られたものとは異なり、個人間で同じでは決してありません。それは彼を特徴づけ、絶えず提供される可能性を発逹させるものです。簡単に言えば、私達の遺伝特性は私達 が実際に発展するための基礎になります。例えば私達はものを見るために目が必要です。あるいは機械は特別な役目を持っています。機械がこの仕事を実行するでしょうか。いかにしてそれは使用されるのでしょうか。もちろんこれは別の問題です。それは遺伝形質からは読みとれません。前提条件とその条件の実現を区別しなければなりません。と言うのは条件は存在しても実現しない場合があるからです。つまりある文化に親しむことができなくなることもあり得るということです。例えばある人が言語を話すために必要な全ての 器官を持っていて、それら全てが遺伝的にブログラム化されていても、もし子供 が言語の影響を経験しないならば子供は話すことはできないでしょう。こういう発逹は不可能で

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す。

したがって問題は遺伝的要素と発達の結果との関係は、直接的で不変の結びつきがあるかどうかということです。これは複雑な問題です。私達はこの問いに対して矛盾する印象を与えるデータを知っています。実際にそういう場合があります。例えば生まれつき盲目の子供や早い時期から失明した子供の直かれた環境があります。この条件下では子供は普通の場合知的発達をうながすことは不可能です。しかし特別の条件をつくり特別の指導と教育を行なえば発逹は可能です。

これは遺伝と発逹の関係は直接的でないことを示しています。限界はありますが、量的というより質的なものです。実際には、私達は発逹の可能性そのものよりも、むしろどの方向に発達するかということに関心があります。多くの場合、発達の方向はその社会、環境、Umwelt によって正しく評価されるか否かに左右されます。もし社会が発達の可能性を正しく評価することに失敗すれば、ある意味で更に成長する可能性は「制限」されます。たぶん制限というのは大げさ過ぎる表現かもしれません。おそらく限界はあります。し かし発逹を制限するものはそうした限界そのものではありません。なお未来への展望が広がっています。したがって、例えばみんなが音楽を演奏する才能を持っているとか,音楽的索質を発逹させることができるとかいうことは、私は信じません。だれもかれもバィオリンを弾くべきだとは思いません。そうではなくて、たぶん、特定の個人が絵や建築など多くの美の分野で才能を発揮することができるということです。こうして個人の可能性の発達は解決されるべきです。

 

ハーバード大学のクリストファー・ジエンクスは、白人と黒人の差異を調査しました。アメリカの人種間のギャッブは経済的なものよリも文化的な格差に原因があると言っています。これが真実なら先進国は、後進国に巨額の金や技術者を送るよリも別の方向て援助すべきです。

 

先ず第一に白人と黑人の間にある相違を受け容れるべきです。同時にこれはよく忘れがちなことですが、実験やテストによって発見された格差は単に経験的なものであるということです。しかし彼等はこの格差の起源については何も言いません。ましてや格差の起源について説明することはできません。発達についての黒人と白人の

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環境は完全に違います。これが第一の観察です。これは隠すことのできない事実です。これが現実です。もちろん内的特性があっていろいろ別の説明が可能な相違もあります。

 

遺伝による相違ですか。

 

そうです。遺伝的な意味で先天的なものです。私は、例えば人間の気質による相違を考えています。人々が反応する仕方については、なお多くの相違があります。それは時に気質とか、パブロフが言う神経系の特徴によるものとして説明されています。後者は実際は気質の差異なのですが、脳生理学的に説明されています。このパブ口フのタィブの説明は、もう一つの問題、つまり大脳神経系の相違の問題にも答えを与えます。この相違は実際に存在し、かつ遺伝的なものでもあります。それは生物学的に決定されます。これ は全く明らかなものです。そこで、私の考えるに、全ての理論が、例えば大脳神経の変化を通じて、この気質のタイプは修正、変化させ得るものと前提しています。

 

化学的手段にょってですか。

 

必ずしもそうではありません。条件やその他の依存性に基づく方法のみによっては変えられないと思います。生命の長い進化の過程を通してつくられた個性を変化させることは不可能だと思います。なぜでしょうか。個人タィプは充分に適応した結果できたものだからです。もしそうでなかったら、このタィプは存在しないからです。つまり進化によって消滅したでしょう。それらは個個に相違しているかもしれませんが、しかし、それぞれ自己充足しています。それらが環境に充分耐えることができ、健全なものであるとい う点が重要な側面なのです。

例を攻搫性にとりましょう。これに関して生物学ではどう説明するでしょうか。つまり、動物の行動についてみますと、何がわかるでしょう。ネコを数世代にわたって操作しますと、攻撃的行動を示すネコをつくることができます。ひもじくない場合でもネズミを殺すネコがつくれます。この実験は実際に行なわれました。こういうネコは知られています。しかし、ここで大亊なことは攻搫性は稱神的なものとは関係ないということです。ある個人が攻撃的な気質ないし行動を持っていなくても核爆弾のボタンを押すように命 令される運命になることもできます。その逆も言えます。非常に攻撃的な人間であつ

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ても、核のボタンが押される可能性に対して闘う人もいます。

この遺伝的、かつ生物学的に予想される多様な差異から導き出される結論はどんなものでしょうか。この差異は個人が誕生すると同時にすでに刻み込まれているのです。したがってこの差異が多くの異なった行動様式を生むのです。例えば南方に住む人は激しい気性を持っています。少なくとも、大勢の人がそうでしょう。この多様性は人間が更に発展する可能性の階梯をつくり出します。これは全て豊饒化を意味します。これは文化的な人間関係の問題に導きます。

例えば国家的発展の業績を交換することによって各国間の友好親善を達成することができると信じます。私は最も抽象的な意味で、普遍的人間的意味で、この惑星に住む人類の全体の観点から、人類の文化の豊饒化について語っています。人類は差異や多様性のために損失を蒙るのではなく、かえってそれらによって^かになるのです。私は国際的良心をつくりあげる考え方を支持しますが、同時に各国の良心の問題も無視できません。国際的良心は常に各国の特殊性を考慮しなければなりません。結局人間の活動、習慣,行為 等のルールがあって、それは多様に表現されます。人間には多くのタイプがあります。静かなタイプ、感受性に宙むタイブ、無感動なタイブ等です。文化的関係における多様なタイプは全体的にみれば美しい花束とも言えます。このタイプの中のニつの接触から生まれる生き生きとした交流はいろいろの異質の行動の交換をつくり出し、それによって伝統が形成されます。このような交流は相互の豊かな発展に貢献するのです。

そんなわけで、ある国民の伝統を鉴礎にしてステレオタイプないしモデルをつくることができるとは考えません。それで例えば次のように質問することができます。つまり、ァフリヵの音楽がわが国のそれに影響を与えたかどうか。答えは確かにそのとおりだと言いたいのです。

 

クロード・ドビッシーはインドネシアの「ガメラン」音楽に影響されました。

 

そうです。それは全くよくあることだと思います。

 

人間の攻撃性の問題にちょっともどリますが、もし天然資源が底をついたら、人々の間の文化的交流の全ては消えてしまうのではないか、という恐れはお持ち

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てあリませんか。もし食糧をますます多数の人々に供給することができなければ攻撃性が人々を支配しないでしょうか。

 

私は苦笑せざるを得ません。あなたは全く抽象的な架空のモデルを考えています。あなたは人々が食糧を手に入れる唯一の方法は闘争や戦争以外にないことを前提にしています。これは正しくありません。なぜ別のモデルを考えませんか。例えば家族のモデルです。もし六、七人の家族の場合、食糧が全く、ないしほとんど欠乏すればどうなりますか。

 

彼らは互いに相談するでしよう。

 

彼等はこの危機を打開するために各人ができることを話し合います。たぶん、一人は町へ行って金を借りるでしょう。彼等は畑を灌溉するための水をどうしたら手に入れることができるかを考えます。たぶん節約も考えるでしょう。家族全員に受け容れられることは全て考えるでしょう。あなたのモデルは一つの方法です。私のはもぅ一つの方法です。このニつのモデルは抽象的です。そこで質問します。どのモデルが現実的ですか。あるいは見通しとして、どれが効果的ですか。どのモデルが最上の結果をもたらすでしよう か。

 

しかし歴史はその反対が正しいことを教えています。現実が希望を裹切らないでしょうか。あなたは人間とその知恵に深い信頼感を持っておられますね。

 

私はこれ以外に生きる道はないと思います。いったいこの信頼感をなくしたら、人間は生きることができるでしょうか。それは全てです。それ以外に方法は知りません。あなたがもし悲惨な選択しかないというあなたの主張を確信するならば、それは狂気、ノィ口ーゼ、自殺のたぐいのものしか生まないでしょう。悲観的考え方から人を殺してはならないのです。それは自殺的悲観論です。

 

ソ連の若者の、例えば心理学、精神病理学、行動科学などに対する興味は増大して、盛んになっていますか。

 

これにはニ点あります。これらの科学に関心を持つ若者は增加しています。数字で示すと、モスクヮ大学に約十四から十五の学部(単科大学)があります。私達の学部は非常に專門化しています。全ての精密科学にそれぞ

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れ一つの学部を当てることはできません。化学、物理学、数学については別々の学部があります。社会科学についても一つではなく、言語学、心理学その他にも別々の学部があります。このように専門化した、それゆえ多数の単科大学があります。各学部に入学するには入学試験をバスしなければなりません。競争が生じます。例えば、普通、心理学や数学を学ぼうとする学生は定員数より多いのです。したがって私達は簡単な規準をつくります。つまり、ある学部に入学したい人は試験を受けます。

このようにして各学部の定員数を決めます。もっと詳しく言うと、ある分野の研究を許される学生数を決めます。そして、学部の定貝数と希望者はいつも同じ数に保たれている煩向にあります。

 

ほんとうですか。

 

まちがいありません。

 

しかし『文学新聞』の最近の報告は、試験競争はすさまじく、とてもむずかしいので有能な学生に強い緊張を与え、たいへんなフラストレーシヨンを起こしていると伝えていますが。

 

試験問題は毎年むずかしくなっていることはまちがいありません。受験者があまりに多いからです。この分野の学科に対する関心は社会が必要とする髙水準の專門家の数より大きいのです。

 

西洋社会のように同じ学科に多くの志願者が殺到する。

 

ソ連もそうです。学生は試験に合格するように求められます。これは正しいやり方でしょうか。私はそうは思いません。誰もこれが一番いい方法とは思わないでしょう。ところがこの方法にかわるものがみつかりません。私はこの点に関して『文学新聞』の二ュースに同意します。試験はあまりむずかしいので、合格するためにはいっしょうけんめいに努力、苦労しなければなりません。学生にとって精神的負担が大きいのです。ただ、フラストレーションと表現するのは言い過ぎでしょう。医学志望の学生が試験に失敗すれ ば、そこで彼の希望が絶たれたというのではないのです。彼は来年がんばって合格できます。三度も試験を試みている学生もいます。私達の社会制度ではこのような機会があります。学生はいつでも予備校に行つて試験の準備をすることができます。

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社会が個人に与える影響についての問題にもどリますが、スキナー〔本書第一巻対談7参照〕によれば、彼は社会は個人をよくするために個人をブログラムすることができると信じています。またカール・ロジャーズ〔本書第一卷対談31参照〕は主要なものは個人だと言っています。

 

私は、スキナーやロジャーズが言う意味で科学や心理学一般が発達するとは信じません。別の道があると思います。

 

毛沢東方式ですか。

 

そうではありません。そうあってほしくありません。人間の科学、特に心理学を科学的に研究する発展の別の道、方向、可能性も生まれると思います。第三の方法です。これは私の個人的見解です。きわめて個人的な見解ですが。

 

あなたはスキナーやロジャーズ的方法以外に科学的心理学をどうつくられるのですか。

 

簡単です。新しい出発点を話してみたいと思います。もしご希望でしたら、公理ふうに述べてもかまいません。今問題の全てについて分析することはできません。これはたいへんな時間がかかりますので。

 

十五時間もかかるかもしれませんね。

 

全くです。いやもっとかかるでしよう。私にとって心理学的思考様式がいくつも存在します。第一の道は個人と社会です。人間にとって、これは社会環境のことです。動物にとっては、自然環境のこと、それだけです。この二つの相互作用はニつの決定要因の理論のことです。人間同士の間に起こる過程によって決定される第二の概念は主体と客体の問題です。さてスキナーの概念は動物から人間に移る方法に従っています。その場合に必要なことは環境を変えることだけです。しかし、自然 - 動物に代表される自然......

 

スキナーの有名なハトのですね。

 

そうです。スキナーが、この相互作用の研究として考えているのは器具、刺激によって動物の側を直きかえる、それだけのことです。実際にはこの相互作用のルートは三点または三段階あります。二点ではありません。

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個人、人間、これが第一点です。これは問題ありません。第二点は他の面、対象、環境です。これも問題はない。しかし第三の重要な点があります。これは表現することがむずかしい。これを三 - ないし四つ - の語で表わしてみます。第一に、ロシア語では「活動(デヤチェリノスチ)」です。ドィツ語では ‘Tätigkeit’ です。注意していただきたいのですが ‘Tätigkeit’ は ‘Handlung’(行為)の意味ではありません。ロシア語の「デヤチェリノスチ」に相当する語です。フランス語では活動、人間行為の活動に当たります。しかしこの言葉も充分 ではありません。実際ドィツ語 ‘Tätigkeit’ にふさわしい訳はないと思います。フランス人は新語を創始しました。新しい言葉を発明しました。彼等は ‘l'activé objectale’ (‘objectif’ 〔客観的〕でなくて、 ‘objectale’〔対象的〕です)と呼んでい ます、英語なら ‘activity’ でしょぅ。

 

「人間の行為」のことですね。

 

そぅです。対象に関する人間の行為です。正確な表現ではありませんが、それに近い意味です。それゆえ私はぃっも ‘l'active objectale’ ‘Tätigkeit’ 「デヤチェリノスチ」 ‘activity’ 等の言葉で表現したいのです。これが第三の点です。これは個人が環境に影簪を与えることを強調しています。この観点からみると、全てが変わります。環境を変えることができるといぅことは環境についての観念を個人が所有していることになります。そしてこの観念の形成は人間の行為、人間の活動を通してのみ起こり得るのです。例えばある人がある物につ いての、非常に抽象的なィメージを持つことができます。具体的なィメージを持つためにはその物体に触れてみなければなりません。今私は目を閉じます。そしてある物体に手を触れていろいろな体験をします。すると私は この体験を翻訳してィメージをつくります。これは主観的ィメージです。その物体を反映したィメージです。触れることによって得られた知識をもとにして次のことがわかります。この心理的過程は全ての様態の中に存在します。視覚体系の活動やその他の知覚についても同じことが言えます。

 

個人による知党のことですか。

 

そぅです。同時に人がある対象について仕取をする間に、私達は別の転换を経験します。イメージは現象-

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環境に屈している対象 - の中にそれ自身を表わします。つまり二重の運動がみられるわけです。この過程が進行する間、私達は苽要な一側面に注意しなくてはならないのです。私がある対象について話をしている時、私は必ずしも物質的なモノにこの対象を結びつける必要はありません。それは理念であってもよいし、お望みなら観念でも音楽でも何でもよいのです。物質的対象物は常に出発点になることは強調されねば ならないのですが、私は物質のみに限定はしません。だが、発達の経過の最中に楮神的対象が形成されます。対象との接触関係を意識する結果としてィメージがつくられま - これら対象が原因になって、またこれら対象の結果 として - 。対象はィメージ形成の手段として活動します。それは使用されるのですが、常に二重の意味でそぅなのです。諸対象は循瓌を構成しますが、しかし閉じた循環ではありません。この循環は今お話しした第三の点によって中断されます。ィメージは決して厳密でも正確でもありません。常に対象との対決がありますが、それは必ずしも物質的対象との対決とは限りません。常に、その他に、人間の活動の明確に定義できない過程が、锫祌的な意味でのこの ‘Tätigkeit’ が、まだあります。論理に導かれた反抗が作用しています 。この全く新しい過程は,私が第三の経路として示したものに結果します。私達は活励しなくてはなりません。人は自分の活動を認識します。人間の活動の認識は人間の活動に導きます。これが、まさに第三の点です。世界がこの過程に介入します。

 

マーガレット・ミード女史〔本書第一卷対談4参照〕が私に言ったことを覚えています。「では、誰がいったいスキナーをブログラムするのかしら」と。

 

私は、この質問を次のように改めたいと思います。スキナーが考えているように、世界を、あるいはむしろ人間の文化 - 実際、あらゆる人間文化です - を変化させるための、誰にとっても同じようによい可能性を、誰がブログラムするのか、と,換言すれば・この安楽の世(これはスキナーの言葉です)における自由 - スキナーは完全無欠の自由を考えています - が実現されているような社会にすることなのだと思いますが、違いますか。繁栄の世界、等々です。誰がこんな文化を創造するのですか。スキナーはこの点に関して不明です。 ブログラム化された文化に強力に影響を与える社会的傾向はどんなものか、その内容はどうか、その発展はどうか。こ

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れはヵーテンの背後にェリートの登場を隠すものです。そうでなければスキナーの全計画は理解不能になります。なぜなら誰かが全運動をブログラムしなければならないからです。誰がこの新しい文化を建設するのか。そこで、私の考えでは、全く不可能な抽象を持ち出す結果に陥ることになるのです。文化は,通常、伝播・普及を必要とします。ある文化を広めるための可能性は「誰がこの文化を所有するか」という観点から考えるべきです。階級の存在する社会では文化は確かに上流階級のものです。スキナーのブログラ ミングでは出版、テレビ、ラジオはどうなるのか。社会諸グルーブの利害はどうなるのか。巨大産業の利益はどうなるのか。スキナーによると、未来の人間、社会を考慮した文化の原理によって彼等を教え、教育しなければ ならないと言います。そうなると各集団の利害はどうなるか。自動車の生産という簡単な例をとりましょう。このグルーブ、自動車産業の重役達はたった一つの明確な目標を持っています。それはできるだけ多くの自動車を売ることです。そこであなたがもし自動車産業を再ブログラムするとすれば、より少なく自動車を売るように指導することになるでしょう。自動車生産の収入は大幅に少なくなります。もし私が、自動車工業家でありながらこの方針を継続すれば、私の家族は当局に連格して私を監禁するか、精神分析医に頼 んで私の頭を調べることはまちがいありません。なぜなら私の家族の収入は大きな損害を蒙るからです。この考え方は全く実行不可能です。夫、兄弟、甥 - 彼等全員が、こうした富がおそらく二、三代の間に自動車の生産から生まれてきたことを知っているからです。そのような計画を実行するのは不可能になります。家族全員が反対するからです。これが、現実の姿ではありませんか。ス キナーが『自由と尊厳について』の中で述べていることは全くの空想です。スキナーが実行したり書いたりしているものは現在の社会を捨象してしまったものにすぎません。そうなのです。階級や差別があたかも存在しない かのような抽象化された文化を考えています。抽象化された行動の技術 - これがスキナーです。

事実は、彼のものはミセヵヶの技術だということです。なぜなら技術は鉄のように冷酷で容赦のない機械的、化学的法則に従います。そこで技術を人間活動に適用することは全くナンセンスです。

なぜなら技術の応用は厳正な法則に従うことを要求されます。この法則は機械の製作や産業の確立に有効で

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す。これに対して人間を単なるロボットではなく人間的存在の形をした人間的被造物としてみなければなりません。人間は意識を持った、人生に自分の目的を実現する社会的存在なのです。人間は活動的存在であり、自分自身を意識しているばかりでなく、社会における他の個人のために責任を果たすことをも意識しています。人間は全人類の幸福のために努力しなければならず、差別をせず、戦争やあらゆる暴力の野蛮性にも警戒していなくてはならないのです。

 

今世紀の後半期に科学の爆発的発展があリましたが、このような時代になお、科学者は大学の象牙の塔に閉じ込もるのをやめて、全体としての人類に対する科学者としての責任を充分理解し意識するようになるという意味で、教育されるべきだとお思いになリませんか。

 

そのとおりです。私は、例えば、化学者、物理学者、その他抽象的科学の分野の科学者のために人文科学を学ばせるための力リキユラムをつくるべきだという考えを支持しています。私は今日行なわれている科学者の養成は充分ではないと思います。現在大学を出て行く科学者は二十一世紀に立ち向かう用意ができているでしょうか。もし私達が、いやしくも、全人類の未来と存統について真剣に考えるならば、現在行なわれている制度 - 単に部分的に教育されたにすぎない人間の体制 - を絶対に中止すべきです。

 

中途半ばな発達しかしていない人間てすね。

 

そうです。しかし問題は责任を持つかどうかではありません。真の問題は自分達の社会的現実を理解せず、それから出てくる問題に対応できない人々に黃任を強要することはできないということです。

 

ユンク〔本書第一卷対談18参照〕は、科学者と軍事戦略家によって広島に投下された爆弾は、第一に人閗の心理の中に起こった惨事であリ、第二に技術に起こった怯事であると言っています。しかしエドワード・テラー〔本書第一卷対談45参照〕とい、フ科学者は広烏の原爆の責任者の一人ですが、彼と括をしましたが、彼は一九七二年に爆弾の投下は「たぶん」まちがいだったと言っています。

 

率直に言つて私は次のような私流の表現がいいと思い

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ます。広島の惨事は科学者のあまりにも極端な専門化の問題でもあると思います。もしこれが社会問題に関係し、人類に関する問題であり、科学者がそれらについて何も学んでいなかったのであれば、どうしてその科学者を货めることができますか。彼は全く他人の考え方に盲目なだけなのです。ある分野に存在するこの種の専門家は完全に無知なのです。社会的観点からみると、この問題は全く誤まった教育制度の問題に他ならないのです。私達はこんな制度を変えなければなりません。

 

トィンビー〔本書第一卷対談5参照〕は私に言ったことがあリます。大多数の歴史家は、彼があまりにもゼネラリストなので、歴史家として彼を認めなかったと言います。ところがトィンビーは次のように信じています。全人類の問題に関わる基本的な事柄を理解するために科学の全体的な展望についての充分な基礎教育と充分な情報を科学者に与えてやらなければならなぃ、と。

 

とにかく私は次のことを絶対に確信しています。大学関係の研究チームや機関の長はこのような重要な仕事に充分に備えるべきです。そして幅広い知識を身につけるべきです。研究と教育の間に強い結びつきがなければならないのです。これは最も重要なことで、教育のためだけに必要なことではありません。教えることができるためには研究者でなければならないとしばしば言われていますが、そぅではありません。事実は反対です。有能な研究者になるためには教えることができなければなりません。なぜなら教える際に人 は自分の精神的視野を常に広く持ち、絶えず新しい情報で満たしていなければならないからです。それを果たすためには、心を狭い视野に限定してはなりません。研究者が自分の研究課題(それはしばしばある特定の分野の中の更に小さな部分ですが)にばかり意識を集中すると、それ以外のことは全く考えず、それのみに、また過度に、專念する傾向に陥ります。

問題はこのよぅに全く単純なことなのです。

(龟川正敬)


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