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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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35 ワレンテイン・ M ・ベレジコフ

V ・ M ・べレジコフ(V.M. Berezhkov) 氏は一九一六年レニングラードに生まれた。 一九四〇年からー九四五年ま で、外務省に勤務し、モロトフ外相の随貝として、ヒット ラーやフォン・リッペントロプブとの交涉のためべルリン にも行つた、第二次世界大戦が起こると、ソ連外交団の一貝として、テヘラン、ダンパートン・オークス、それにサンフランシスコ會議 - この時、国魂か組嵌された - にも参加した。 ー九五四年以降は、ジャーナリズムに堪心し ている。氏はモスクワの『ノーヴォ工・ヴレミヤ(新時 代)』誌で仕亊を開始した。一九六九 年、アメリヵ研究所 が発行するーアメリヵー經濟、政治、イデオロギー』誌の編集長となつた。 編者の同業者たるべレジロフ氏には多 くの著書がある。『ベルリンへの外交使節』(ー九六六年)、『ー九四三年のテヘラン会議』 (ー九六九年)、『反ヒットラー同盟』、『國連の削設』、 『外交官時代』などである。

ソ連邦科学アカデミーのアメリ力研究所同様、私逹の雑誌も比較的新しいものです。同研究所は一九七四年削立で六歳になりますが、私逹の『アメリカー経済、政治、ィデオロギー』誌も四歳ほどになります。この雑誌の名前はいささか長ったらしいのですが、それは取り扱う内容を文字どおり示しているもので、このょうに多くの分野をカバーしています。雑誌は、月刊で、主としてソ連国民向けに発行しております。現在三万五千部発行していますが、そのうちの三万は、国内での定期牌読者が質い、ニ千部は海外に送っ ております。残りの三千部は店頭で毎月聃売されております。

私達がこの雑誌を発刊したのは一九七〇年一月、つまり第一回の米ソ首脳会談のニ年半程前でした。それ以来本誌は米国の生活、社会おょび政治、経済の発展について、多世の情報を提供してきました。われわれは、いかにして、アメリカの態度と政治が大転換したのか、そして、なぜこの巨瓸会談はそもそも可能になったのか、い

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かにして冷戦時代から緊張緩和期へ移行したのか、ある いは、いかにして東西間あるいは米ソ間の関係の大かれ少なかれ正常化が违成されたかを説明しました。

もちろん、これらの問題を、われわれは国際情努の動向とも関連づけて説明しました。例えば、社会主義諸国やソ連での成功と失敗、世界各地での民族解放運動の成功、それに、アメリカ国内の発展に関する成功と失敗、などと関連づけて説明しました。例えば、なかんずく最後の例の場合には、アメリカのような豊かな国でさえもそういつまでも予箅の拡大をはかり、巨額な費用を戦争に注ぎ込み続けることはできないということもわれわれは教えました。アメリカは結局、ベトナム戦争の中止を余篏なくさせられて、平和 交渉を開始しましたね。またわれわれは、なぜソ連が米国戦略兵器の削減と管理の問題を話し合っているかも説明しました。おそらくご存知 でしょうが、ソ連の目標は、以前も現在もずっと、その資金をもっと。要かつ必要なものに使って行くということでした。ソ速は、今でも、東西間でこの最重要問題で 合意が成立し、それによってお金を節約し車琪费を削減できるという希望を捨てていません。

 

あなたは緊張緩和を強調なさいますが、NATOの事務総長で、私の尊敬すべき同国人ョゼフ・ルンス氏 は、ー九七ニ年五月ニ十九日付けの「ニュ|ズゥィー ク」誌とのイン夕ビユーに答えて、次のように言って おります。「ソ連人や共産主義者逢が、緊張緩和と苜う時には、戦争の锥統を考えているのだ - ただ手段 が違うだけだ」と。ルンス氏は、全NATOS代表する最も著名なスポークスマンですね。

 

ご質問に答えるためには、先ず社会主義諸国と資本主義諸国の歴史を少しばかりさかの・ほらなければなりません。この点に関する決定的な問いは、われわれは、両方の異なった体制を共に容認する用意があるのか、というものです。つまり、われわれは共存して行く用意があるのかという問いです。これにどう答えるかが最も瓜要なことです。もちろん、社会主我国に対して巻き返しをは かり、現存する社会的努力としての社会主義を認めまいとする、あるいは、社会主我を歴史の私生児とみなそうという動きがあることは よく知られています。

今しばらく、ソ連の社会主義大革命直後の年月を振り返ってみますと、資本主我諸国の政策は、常に社会主義

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を抹殺しようとする努力に向けられていたことがわかります。これらの試みは、第一次、第二次両世界大戦の初期の間もみられました。この時には、ソ連はまだ世界唯ーの社会主義国家でしたが、あらゆる方面からわが国を壊滅させようとする試みが計画されました。日本もわが国を攻擊しました。中国の軍閥も第一次大戦後わが国を攻联しました。そして、もちろん、ヒットラーのドィッ が打ち出したあらゆる政策は、本質上、この目的のため に、ヒットラーの侵略をソ連に広げることに向けられました。しかしよく知ら れているように、歴史のくびき は私達全てに与えられました。ヒットラーの敢初の链牲 者として西欧のいくつかの国々が抹殺されましたが - その中にはあなたの国オランダも含まれています - 、第二次世界大戦中には、反ソ同盟が結成されずに、歴史 は反ヒットラー同盟を整えました。な・せなら、ョーロッ パ諸国は、今や、ナチ帝国主義の脅威を感じていたから です。そこで、ソ連をも反ヒットラー關争に加えた方が 得策だと考えたわけです。

 

確かに、私の国(オランダ)がソ連を承炫したのは、ようやく、匕ッ卜ラーのオランダ進攻後の一九四〇年五月十日だったということは、興味深いことです。

われわれソ連国民は、自らの解放のためにのみ第二次世界大戦を戦ったのではなく、実際上、オランダの自由のためにも戦ったわけです。もちろん、ソ連は、この大戦でニ千万人もの生命を失っただけでなく、ナチによる国土破壊も想像を絶するものがありました。ところが、戦争が終わって見出したものと首えば、今度は「冷戦」パターンが同じレべルに定着していた、 ということでした。

 

繼續中であった。

そうです。資本主我諸国による同じ反ソ政策の継統があったわけです。しかし、その頃には、ソ連はもう一人 ぽっちではありませんでした。 ョーロッパやアジアには、社会主義的再速の大道を歩み始めた国々が出現していました。それらの国々は「人民民主主義」国と呼ばれていました。ところが、アメリカやNATO諸国を含む主要西側諸国の政治は、依然として社会主接に対して卷き返しをはかるか、あるいは、社会主義を抹殺しようとするものでした。资本主義諸国は、このような政策をと

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ることの説明として、その正当性を国民に認めてもらう ために、第二次世界大戦前と同様、相変わらず、ソ連齊威論を説きまわっていました。しかし、もちろん、第二 次世界大戦後には、彼等を脅かしているのはソ速だけで なく、全社会主我共同体だというわけです。

あなたが引用されたョゼフ・ルンス氏も、実際上、それと同1パターンを繰り返しています。ルンス氏は、相も変わらぬ古い観念を解説しているわけで、私達は西側諸国を脅かす何か邪恶な魂胆の持ち主であるというのです。そのような考え方は非常にまちがっております。私達は、いまだかつて、そのような政策をとったことはありません。われわれは、一貫してあらゆる国々と正常な関係を打ち逑て、贸易、文化、社会的交流を発展させることを提案してきたからです。われわれは常にこのような政策を支持してきました。こ れは、いつ着手できるのでしょうか。それは、西側の政治家連が、社会主義を打倒するのは不可能であること、西側国の々は社会主義と共存しなければならないことを悟った時初めて開始できるのです。私逹は、资本主我世界のただ中に生み出されたものです。私連は、かつては世界で唯一の社会主義 国家でした。その結采、私達はすでに幼年期に、同じ世界の資本主義諸国とも共存して行かなければならないことを学ばされたのです。しかし、资本主義諸国の指導者 連は、私违を歴史の偶然とみなしました。彼等は、とうの昔に、私達に破滅の 判決を下したのです。彼等は私達 とは共存も協力も望まなかったのです。しかし、今や現在の全く違った状況があります。すなわち、ニクソン氏 や他のアメリヵの指導者連も、少なくとも米ソは同格であると言うようになっているわけです。つまり、彼等は、取実上、自らも滅ぶことなく私违を抹殺することは不可能だということを悟ったということを意味します。そして彼等は私逹との共存に惯れてきつつあります。これが現在私逹が匠かれた歴史時代です。現在は緊張緩和の時期、あるいは平和共存の時代です。これは容易ならざる時代です 。というのは、依然として、ヨゼフ。ルンス氏の ような人達がいて、依然として過去を眺めており、依然として古い政策に執着しており、それを放棄しようとはしないからです。こういう人達は、依然として共産主義に対するありとあらゆる「理論」や幻想を説いて、人々を脊かそうと試みています。

 

私自身も、過去数年間、ルンス氏の記者会見にいろ

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いろ参加してきましたが、そこでいつも陳立っていた のは、ルンス氏が、嫌リ返し嫌リ返し、ソ連艦隊の世 界の海洋への進出を強調していることでしたが。

そうしたルンス氏の発言は、いつもこれまでと変わらぬパターンの繰り返しです。

 

しかし、この潮流を転換させるために何をすべきな のでしようか。

先ず何より、お互いをもっとよく、もっとずっとよく理解し合うことが絶対に必要です。そして、何よりも、お互いの政策が実際にはどのようなものであるのか、ということをよく知ることです。例えば、私どもの雑誌 は、アメリヵの動向とその意義をできるだけ注意深く、客観的に研究することを。務と考えています。私どもは、良い面も悪い面も同等に研究しています。私は、もし西側のジャーナリストもソ連の政策や動向、それに国際関係の分野での過去数年のソ連の提案を詳細に研究してくれるならば、たいへん有意義だ と思います。

更に、諸外国の人々がソ連の歴史を注意深く研究してくれたら、たいへん有益だと思います。とにかく、革命後五十六年の歴史上で、ソ連が他国、わけても資本主我国を攻擊したことは一度たりともなかったのです。その ようなことは一度も起こらなかったのです。ところが逆 に、資本主我諸国が社会主義国を攻擊してきた例は、ヒ ットラーがわが国を攻めてきたように、いくらでもあります。また、资本主義国が同じ资本主義国を攻解した例 もあります。

第二点として申し上げたいことは、私逹がほんとうに軍事力を使って、西側の生活の破壊を考えていたなら ば、第二次大戦直後にあったそういういくつかのチャンスを逃さなかっただろうということです。ソ連苹は当 時、デンマーク領内、ボルンホルム岛に達しさえしてい たのです。しかし、われわれは撤退しました。われわれ は、ドイッ革からデンマークの領土を解放して、デンマーク国民に返還したのです。フィンランドをごらんなさい。この国は第二次世界大戦中、ドイツのヒットラーの同盟国であり、わが国を爆擊してお りました。彼等は、レニングラードを脅していました。事実、フィンランド が、ナチと結託して、レニングラードを完全に破壞しようと準備していたことを示す記録文雄も発見しております。私逹は、フィンランドを破壊しようと思えばできた

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にもかかわらずそぅしませんでした。今ではわが国はフィンランドと友好条約を結んでおります。実際上、大戦後、ずっと両国はよい関係を保ってきております。このことは、社会主義国 - しかも超大国であれ - と、小さな資本主義国 - この国は、何より隣国です - との間の関係の素晴らしい見本だとみなされるべきです。ところで、あなたはソ連艦隊についてお話しされたのでしたね......

 

ええ、ルンス氏が常にそのことを搞っているのです。

よろしい。あなたはルンス氏の言葉を引用しましたね。現在、アメリヵ艦隊が地中海、南シナ海、インド洋 などに配備されている時には......

 

それは別に問題にされない。

そのとおりです。もちろん、別に問題はないでしょぅ。アメリヵは大国ですから、当然です。しかしなが ら、今では、米ソの軍車力の均衡を受け容れる人々が出てきていますが、彼等にはまた、ソ連もまた必要とあらば、どこへでも艦隊を送る。たろうという状況に惯れてもらわねばなりません。つい最近(ー九七四年四月)ェドワード・M・ケネディ上院議員がモスクワを訪問し、私達のアメリカ研究所の職員に演説したことがあります。その時何度も繰り返し強調していたのは次のことでした。「みなさん、私がここにきているのは 、われわれはお互いに相手を対等に扱わなければならないという了解のもとにおいてであります」ということでした。ケネディ氏 は、このテーマを何度か取りあげました。さて、もしお互いを対等に扱うというこの前提が受け容れられるなら ば、もはやソ連艦隊がどこそこに出没しているなどととやかく言い立てて - その実、アメリカの軍隊もそこにいるのです - 人々を驚かせようなどという試みは、もうやめるべきでしょう。しかも、すでにご承知のとおりブレジネフ供記長は、ソ連国家を代表して、再三再四、ソ連はあらゆる海域 から全艦隊を引きあげるための交渉と協定締結の用意があると言っております。しかし、このことは同時に、当然アメリカも同様に、その艦隊を引きあげるベきだということを意味しております。

 

たぶん、オランダが米ソの艦隊を追い出して、それ にかわゥて、十七世紀のように、七つの海をまた支配

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した方がいいのかもしれませんね。閑話休題。私の本 職のジャーナリズムの話にもどリますが、オランダ は、アメリカに多数の常動・非常勤の通信貝を置いて いますが、モスクワには、この数年間、文字どおり一人もわが国の報道関係者がいません。私の苜いたいのは、超大国の同格をおっし々るのであれば、 われわれの記者も置いてくださらないと、お互いの問題を知るのはむずかしくなるのではないかといぅことです。

私には、どぅしてオランダのジャーナリストが、モス クワに一人もいないのかよくわかりません。

 

オランダだけではありません。このとてつもない広犬な国では、ー連の西側の記者の数が非常に制限されています。私は、その原因は、ソ連では多くの事柄がまだ厳しい統制下にあリ、西側のジャーナリスト連が 憤れている取材活動の自由が充分保陣されていないことにあるのではないかと思います。

しかし、アメリヵの記者の数は確実に増加してきてお り、アメリヵの読者が、いながらにして、もっと情報を 手に入れやすくするという必要に応えつつあります。私達は、当地でアメリカの記者連と同等の条件で仕琪をしています。私がアメリカの新聞を研究し、ここの通信貝がどんな記班を害いているかをみますと、記者违が、いかにも多くの情報を自由に取材しているような印象を受けます。彼等はしばしば興味深く有益な仕事をしています。しかし時には。わが国とその政策をまじめに客観的に研究するためでなく送られてく る通信員もいます。こういう人逹は、ソ連にくる前につくりあげた偏見を確 証しようと試みるだけです。しかし、まじめな意図を持 ってやってくる者には、彼等が求める全ての情報が得られるように、正常なチャンスが与えられるでしょう。す でに幾人かのアメリカ人記者達は、私でさえ行ったことのない奥地まで旅行しております。私はアメリカの新聞で彼等のレポートを読んだことがあります。

 

ご承知のように、私は、現在ソ連を公式訪問中のオランダのマックス・フ了ン・デル・シユテール外相一行のー貝としてモスクワにいるのですが、同外相がグロムィコ外相との会談の合間に同行のオランダ記者団と行なった会見の中で、私にとゥて非常に印象的だったことは、外相が緊張緩和は東西の個々人、マスコ

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ミ、ジャーナリス卜、作家、その他の人逢の、これまでより自由な交流を伴うべきだ、と首ったことでした。実際、オランダ外相が考えているように、それは、緊張緩和の前提条件であるようです。

この問題についてのわが国の立場は次のとおりです。わが国の原則は、ソ連共産党のブレジネフ書記長が国家を代表して何回も述べています。原則的には、われわれは、愴報であれ何であれ、希望するものの交換に贊成です。しかし、もちろん、この交換は関与する国々に存統している法律や規律に安全に従って行なわれるということは許されるべきです。例えばあなたの国では、ボルノグラフィーを禁止しているかどうか、私は知りません。ソ連では、それを禁止する法律が歧存します。それゆ え、われわれは、例えばデンマーク で自由に阪売しているような類の出版物を自由に流布させることはできません。たぶん、これは楔端な例かもしれません。しかし、ソ連はわが国の法律・惯習・伝統に応じて、情報を交換する用意があるということを、私は強調したいのです。

何なら、例をあげましょう。ソ連では、犯罪を誇張しないという伝統があります。大抵そのような記事は、わが国の新聞の隅っこの方にしか載せません。意図的に制限して扱っているわけです。時には、裁判が終わってからようやく公衆に事件を知らせることもあります。犯罪事件を見出しにしたり、また街頭で朱に染まって倒れている人の写真を載せたりするような伝統もありません。ところが、西側諸国ではそうする惯習があります。われわれにとっては、そのようなことは、しばしば伝統の破壊行為になるわけです。私連は、決 して西側諸国のようにするつもりはありませんし、また犯罪の洗いざらいを新聞に敝せろと一方で言いながら、他方ではソ連とデタントを取り結ぼうなどと言っている人々を、われわれは 理解できないのです。

 

それは少し極端過ぎますね。

これはほんの一例にすぎません。彼等がほんとうにねらっているのは、彼等が持っているありとあらゆる情報をわが国に氾淮させようということです。ソ連のいわゆる反体制主義者にまつわる事件がいかに仕組まれたかみてごらんなさい。私逹は国内のそのような反体制主義者をよく知っています。彼等が畨いたり、言ったりしたも のが、資本主義諸国で自由に出版され、販売されていま

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す。特に、ソ連を批判した作品であればどんなに無名の作家でソ連内ではー行も活字にならなかった者でも、资本主義諸国では大歓迎されているようです*そしてもち ろん、そんなものが「文学」と呼ばれたりしているのです。数年前のことですが、そのような人物がいました。確かタルシスとかいう名前だと記憶しています。彼は自称新トルストィ主義者と言っていました。誰にもわからない散文を胷いていたのですが、誰もー顯だに与えませんでした。そういう時に外国のある記者に拾い出されたわけです。タルシスは、反ソ的傾 向の強い小説を害いて いましたが、それが外国で出版され、一躍有名作家になりました。彼は国を去ってスィスに行きました。以来、ニ、三年経ちましたが、この新発見の文学的天才のその後は杏として知れません。彼がそのような才能があったとはわが国では誰も倍じませんでした。西側のマスコミが、彼にそういうレッテルを貼ったにすぎなかったのです。しかし、彼がソ連を出たとたんに、誰一人二度と彼 を知るものはないのです。

まだ他にもそのような例はいくらでもあります。アナトーリ・クズネツォフ(『ハービィ・ヤール』の著者)の場合をごらんなさい。彼の場合はいくつかの作品も出版されました。しかし、その後、彼はこの取るに足りぬ反体制グループに加わったのです。彼も、同じように反ソ的作品を掛き始めて、突然外国で有名になりました。その後、旅行の名目でソ連を出国してロンドンに行ったきり、倚国しませんでした。あれからニ年も経っていますが、彼のことを知る人は誰もいません。まだものを进いているかどうか知りませんが、何も出 版していません。もはや西側にとっては、彼の作品は何の価値もないのは明らかだからでしょう。それ以上は、全く彼については 関知しておりません。

ソ連には、立派な作家が大努います。例えば本年(ー九七四年)レー二ン文学賞を受賞したコンスタンチン・シメノフなどは、そのー人です。しかし、最近西側でシメノフを語るのは聞いた。とがありません。西側の関心 は全て、ブロフスキーといった反体制主義者や、ソ連では全く知られていない連中に向けられているのです。ソ速の最も有名な芸術家達は外国では知られていないのです。

ところで、私逹は、軍事力による共産主我と社会主義の破壊と、わが国の攻擊をねらう国際的な企みについて話し合っていたのでしたね。現在は、あなた方のNAT

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O事務総長ョゼフ・ルンス氏が受け容れるか否かにかかわらず、東西の力の同等は鮫守するということは意識さ れています。おそらくルンス氏は、この命題に同意しようとせず、ソ連や社会主我諸国に対する攻轚と勝利の戦争を夢見統けていることでしょう。しかし、西側には、ルンス氏以外にも、より责任ある、力の均衡という現実を受け容れる指導者がいます。それゆえ、もはや、共産主義に反対してあからさまに戦争をしかけることはあり得ません。それゆえ、彼等は方向を転換して、破壊活動戦に出てくるに違いありません。ィ デオロギー闘争をしかけて、あらゆる手段を用いて滲透し、私逹の社会と生 活様式を破壊しようと企んでいます。そのような人達 は、緊張緩和には実際のところ何の関心もないのです。

(中村哲雄)


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