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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

Vorige
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49 アウレリオ・ぺッチェイ

アウレリオ・ぺブチェイ(Aurello Peccei)氏は一九〇八年、イタリアのトリノで生まれた、トリノ大学から最優等で経済学博士号を授与され、一九三〇年、フィアット自動車会社に入社した。氏は最初第一次世界大戦に先だって中国に派遣された。一九五〇年以来、フィアットの重役の一人である。氏はアルゼンチンにあるラテン・アメリカ支社の社長でもあり、フィアット・コンコルド社の会長でもある。一九七四年、氏はローマ・クラブの仕事に専念するため同社を退職した。一九六四年から一九六七年まで、氏は、オリべッティ社の会長兼社長の職 にあった。この会社の再建といぅ任務が終わった後、一九七四年まで同社の副社長を務めたが、一九七四年、上記の理由で自発的に退職した。べプチェイ博士はまた、ラテン・アメリカの開発と、私的資本活動の促進のために設立された国際投資会社アデラ社の創設者でもある。氏はバリにある大西洋研究所の経済委員会議長でもある。更にべッチェイ博士は、ローマに本社を持つ世界一流の技術およびコンサルティング企業であるイタルコンサルティング社の社長でもある。氏は、口ーマ・クラブに、より專念するために、このイタルコン サルティング社も一九七四年に辞した。そして最後に - しかし、最も重要でないといぅことではなく - 氏は、一九六八年創立の、今や有名なローマ・クラブの設立者であることも、もちろんである。

 

ローマ・クラブは、創設以来六年目を迎えよ、フとしています。ローマ・クラブの活動をふリ返ってみて、イ最も大きな業績としては何をお考えですか。

 

私達の主要な業績と言えば、ローマ・クラブ創設前に私達が管見していたことの意味を多くの人々に理解していただいたことではないでしょぅか。それは、この地球上の人類の環境の変化や、現代社会の根底をなすいろいろな要素の急激な悪化についての認識です。私達はこれらの危機について一貫して警告してきましたし、また、

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進展しつつある状況を回避する方法の研究が緊急な課題であることも訴えてきた、最初の者逹に属します。ここ二、三年、人間存在の状況を詳しく調べ、それを全人類史と比べてみれば、ただちに、このきわめて短かい期間に非常に多くの瞠目すべき事柄が生起したことに気がつくでしょう。このように押し寄せてくる出来事の巨大な重要性を理解し、また、全世界を取り巻く情勢がいかに - なぜかは問わぬまでも - 悪化したのかを把握することが真にできる人は、まだ誰もいないのではないでしょうか。ほとんどの人々は、晴天の霹靂のよう な、きわめて不愉快なエネルギー危機によって、全く催眠術にかけられたような状態です。この突然の危機におびえた人類は、かつて世界のどの国も経験したことのない大規模な飢餓の亡霊の再来をも目擎しました。その規模はあまりにも大きく、また、急速に悪化しているので、「巨大飢饉Ga naar margenoot+」という新語までつくられたくらいです。こうしたことは、皆、いかにして、なぜ起こったのでしょうか。

ローマ・クラブがこれまでやってきたことは、全世界の世論に対し、これら一連の現象を、それぞれ単一の複合的かつ以前とは異なる地球的現実 - これを私達は「人類の危機」と称していますが - の異なった諸側面としてみる視点を唤起させることでした。「ローマ・クラブの教え」 - こんな言葉を使っていいとすれば - の一つは、この現実を地球的「問題複合体」としてとらえるのでなければ、全く理解することはできないだろうということです。例えば、私逹は、石油不足が貨幣制度の安定性や信頼性に及ぼした影響についても、またこれらの要 因がECの現在の動向おょび将来の見通しに影響するのもみてきました。これはほんの一例ですが、論を進めて行くと、ョーロッバの基本的統合の欠如が世界にもたらすであろう一種の空隙を頭に描くことができます。この世界は、人類社会が溶け合って、現在の非合理な、絶望的分裂状態とは異なる何物かになることを必要としているのです。更に、ョーロッバの統合の失敗は、世界の他の部分に困難をもたらす、等々です。

 

そしてまた、その結果として、現に北半球に住む十四億の人々と、南半球の二十五億の人々の間の、この侮蔑的な差別が存在するのですね。

 

それは、道徳的にのみならず、政治的にも真にがまんできないことです。更に、爾余の状況をも全て悪化させる原因にもなつています。全地球的な深刻な状況につい

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て、やっと理解されるょうになりつつあります。アメリヵでは、科学アヵデミーや、アメリヵ科学財団などが中心になって、巨大な人口 - 食糧 - エネルギー問題複合の動学と、その衝搫についての大がかりな研究を始めています。この研究の首唱者である、アメリヵ科学アカデミー総裁のフィリップス・ハンドラー博士は、もし今すぐに思い切った対策を講じなければ、『成長の限界』の警告以上の事態が起こるだろうという悲観的見解を述べています。『成長の限界』が出版された時冷笑していた人人も、今では奇妙に沈黙を守りがちです。 『成長の限界』で述べられている結論は、まちがった指示を与えられたコンビュータからはじき出された「くず」だとか、人間社会の暗い面だけしかみれない人々の歪んだ頭の中で育まれた悪夢だとか言う人はもはやいません。

一ロに言って、過去五、六年間をふり返ってみた時、非常に顕著な二つの変化をあげることができます,客観的に言って、一つは世界情勢の着実な悪化であり、もう一つは非常に広範多岐にわたる社会各層、が普通の男女を含めて、今や、人類は空前の難問題に直面している、ということを知らなければならないことに気づいているということです。更に、一般に、このような世界的問題の悪化をどうにか喰い止めるために、闘わなければならないことを理解しています。しかし、この闘いは、地球上の富める人々や,あれこれの一階級のた めではなく、全ての国、全ての人類のために解決さるべき重要なものです、人類は幸運の波に乗って繁栄の一途をたどっているのだ、と考えられていた数年前に比べ、諸問題解決への見通しは明るくなつていると言えます。

 

ローマ・クラブは、一九六八年四月に創設された当初は、西側諸国の、世を憂える科学者や知識人から成る小さなグルーブでした。しかし、ここ数年の間に、まさに世界的組織に発展してきたという感を深くしますね。

 

ほとんどそう言えますね。少なくとも、現在では、あらゆる文化圈、全ての大陸からメンバーが参加しているパと言えます。クラブ員には、多様な学問分野、それにいベろいろなィデオロギーを代表する、事実上、あらゆる職種の人々がいます。とは言つても、まだ僅か百名のメンレバーしかいない小グルーブですが、また、これ以上に拡大する気はありません。このような小規模なグルーブで、人類の抱く確信のあらゆるニュアンスを代表するの

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は、ほとんど不可能かもしれませんが、それでも、私達 は、現時点において、最も適切な、人間の生活環境や、選択肢についての思潮、自覚、献身の中から選りすぐって検討に饗しているつもりです。

 

これまでのローマ・クラブの会議に参加して感じるのですが、ィンドやラテン・アメリカ、ポーランドの人々は、執拗に、この地球は富んだ北半球と貧しい南半球から成るという事実を先ず承認しろと迫っているようですね。

 

そのとおりです。すでに指摘されているように、豊かな国と貧しい国、強国と弱小国、教育水準の高い国とそうでない国といったいろいろな面において、否定しようもない、また受け容れがたいギャップがあります。僅かの特権階級的国民は、あらゆる面で恵まれた生活をおくり、大多数の人々は少ししか、あるいは全く夢のない生活を強要されているのが現状です。

しかし、この人達の樓まねばならない世界はもう分断されたものではなく、真に一つになったのです。この爆発寸前の矛盾は、現代の皮肉でもあり、悲劇でもあるのです。世界は、一つに統合されたシステムであり、その各々の部分は他の全ての部分の幸福を基本的には願っているのだ、といぅ認識があって初めて、私達の個人的集団的運命を、比較的よく管理する望みも持てるのであり、世界をかたわにしている現在の致命的な裂け目に遂に架橋する希望さえ持てるのです。東西両側の先進国と、より未開発な国々との間に伝統的に引かれ ている区画線は非常に誤まったものです。それでも、いくつかの範疇への分割を試みるならば、少なくとも四つの、依然として異質な世界に分類できます。第一世界は、自然資源にも恵まれ、しかも工業化された国々です。それは事実上米・ソですが、ヵナダや、オーストラリアも、完全にではないにせよ、このグループに厲します。第二の世界は、自然資源はないけれども工業化された国々で、ョー口ッバ諸国や日本などがそぅです。このグルーブに厲する国々の間の諸規範や動機づけの差異はかなり大きいものがあります。次いで第 三の世界に厲するのは、石油やその他自然資源は豊富にあるにもかかわらず、未だに、あるいは全く、工業化の進んでいないヴェネズエラ、クゥェート、エクアドル、それにナィジエリアなどの国国です。第四の世界は、資源も産業も当てにできない貧者中の贫者たる、絶望的な国々です。ちよつと中国は除

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外して考えますが、そうすると、このグルーブ内には、世界人口の三分の一が住んでいますし、また、それは繁殖率において他を圧する三分の一です。以上、四つのグループに大別しましたが、それぞれのグルーブに属する国々の問でも、更に自然的、政治的、文化的な障壁がいくらもあるということを指摘しておく必要があります。

現在私達の方で進めている全てのブロジェクトでは、世界システムは地域化されています。すなわち、発逹水準、発展のダィナミックス、政治的、ィデオ口ギー的方向等々の相違に応じた十から十二の主要地域ないしサブシステムから成っているものと考えられています。このように明確に細分化され、異質性があるにもかかわらず、相互関係や、相互依存性があまりに顕著であり、かつ増大しつつあるので、これら全ての地域は単一のシステムを構成しているというのが、現代の動かしがたい事実です。

地球上の生活は、クモの巣のように相互に絡み合い、依存し合っているのです。どのような問題を取りあげてみても、他のいろいろな分野と関連しています。ですから、ある一つの問題だけを孤立させて論じることは不可能です。あらゆる活動、国家、地域、体制は単一の世界の中で相互に密接に依存し合っているのです。最も大事なことは、いかなる人種や国家も、このユニークで小さくてもろい世界の中の同胞であり、共通の運命によって互いに結びつけられるているという認識を持つことです。ここ五年来、このような認識は高まりつつあります。

 

私は自分で観察してみて知ったのですがソビエトのジェルメン・M・グヴィシアニ教授〔本書対談30参照〕やポーランドのアダム・シャフ教授〔同対談36参照〕といったマルキシスト学者も、ローマ・クラブの活動に非常に関心を寄せているようですね。しかし、東ョーロッバの代表もローマ・クラブのィンナー・サークルに加入することになるのでしょうか。

 

われわれは、ローマ・クラブのメンバーは、人類の最も進んだ部分の横断面を示していると自認しています。私逹は、社会主義者逹、特に社会主義国の仲間がもっと多く参加することを望んでいます。現在、メンバーは、二つの社会主義国からしかきておりません。しかし、ローマ・クラブの理念から言いますと、メンバーであるかどうかはそれほど重要な問題ではありません。大事なことは、ローマ・クラブは、全体として全人類的立場に立

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って、世界が直面している「問題複合体」に対処しようと努力していることです。これはまさに、社会主義諸国が、われわれの活動としてますます認識を新たにしている点だと思います。一九七三年十二月、私はブラハで開催された非常にハィ・レベルの東西会議に参加しました。それ以前にも私にはすでに明らかでしたが、その時確かめ得たことは、東ョーロッバの指導者も、世界的問題の特徵や規模、それにそのダィナミックスにますます関心を示していたということでした。この理由としては二つ考えられます。第一に、つい最近まで 、社会主義諸国は、世界の悪の根源は全て西側、あるいはより一般的には資本主義から生じた結果であり、社会主義国では資本主義諸国で起こっているような問題にはほとんど感染していないと考えていました。ところが現在では、彼等は、社会体制がどのようなものであれ、どの国でも共通する問題があるということに気づきました。それに、現存する問題はあまりにも巨大かつやっかいなので、その解決をいくらかでも成功させるには相互協力が必要だということもわかってきました。こういうことは、西側諸国の人々にとっては初耳かもし れませんが、東側諸国でも、今日人類が抱えている問題は、イデオロギーの相違を超越して全人類の英知を結集して対処しなければならないのは、もはや亊実なのです。社会主義諸国が態度を変えた第二の理由としては、諸問題の複雑性や相互連関に対処するためには、諸学問間の連携をとる必要があることに気づいたことです。これまで、あらゆる専門機関は、全く孤立して、限られた專門分野だけを深く研究していることがよくありました。しかし、このよぅな偏狭な研究方法は徐々に改められ、強力な学際的協同研究の方向に変わりつつあ ります。東ョーロッバでも、現代社会や未来社会 における諸問題に対処する方法として、ローマ・クラブと同じ方法が採用されています。このよぅにして、社会主義諸国と私達との共通理解が深まって行くと思います。

 

モスクワでグヴィシア二教授にお会いした時、ソビエトも現在、システム分析によるMITと同じよぅな未来研究に着手していることを話してくれました。

 

ソ連には、優れた数学者やシステム分析学者がいますから、複雑な人間諸システムを理解し、互いに関連づけ、解釈し、そして表現するために既存の手法を適用し、あるいは新しい手法を工夫することができるということは

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疑いを容れません。このような研究に際して、お互いに情報を交換することによって、東西交流や協同研究は容易になるでしょう。しかし、法則やアルゴリズムの世界からただの言葉の分野に移ると、いくらか問題が生じます。翻訳はたいへん複雑な仕事です。例えば、「システム分析」ですが。これは私達にとってさえ総括的で間口の広い概念です。ソ連では、この分野での知識や概念を一まとめにして表現するためによく「サイバネティクス」という語を用います。ゥィーン近郊に設立された国際応用システム分析研究所の目的(しかも決 してやさしくない目的)の一つは、言語障壁を乘り超えて専門用語を体系化し、調和させるようにしようということです。他ならぬこの研究所の所長がグヴィシアニ博士というわけです。

 

本書の第一卷である『明日の地球世代のために』という本の中で、私は、当時一九七二年に、ローマ・クラブは第二世代のブロジェクトに着手したというあなたの言葉を載せたのですが。

 

あなたもよくご存知のように、『成長の限界』を発表した後、ただちに新しいブロジェクトに着手し、目下研究を進めています。そのいくつかを紹介しましょぅ。今世紀の残り数十年ー;そしておそらく二十一世紀にかけてー人類にとって最も重要な問題の一つは人口問題です。それは、人類が利用できる限られた資源にもはかり知れない圧力を加えています。もし、破滅的大災害がなければ、三十年ないしは三十五年後の世界人ロは現在の倍くらいになるのは確実です。私達が進めている「人口二倍時の諸問超研究」では、充分な生活を 維持できるだけの最少限の食糧を全人類に供給することが可能かといぅ重要な問題を検討したいと思っています。今回のモデルでは、食糧問題についてだけ研究しています。一九七五年の初め頃研究結果が出る予定です。しかし食糧以外の人間の欲求もこれに劣らず基本的です。

ローマ・クラブの最も野心的なモデル研究は、仮りイに、「生存のための戦略」とか、「人類の選択可能性の遁減」、それに、「曲り角にきた人類」などと呼ばれているものです。このよぅな世界モデルの研究によって、人類は未来への岐路にあって、単に知的にだけでなく、意味論的にも重大な決意を迫られていることが立証されると思います。このブロジェクトは、世界的視点に基礎づけられた方法論と、地域・各国モデルに基づいています

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が、それは長期政策の選択肢のための計画とアセッスメントのトクールとして展開されるものの基礎です。また、このトクールは、いろいろ異なった政策から生じ得る結果を示すことによって纷争阻止のための対処策を内包的に示してもいます。政策決定者にとってのこのような援助は、ますます重要性を增すでしょう。と言うのは、世界システムの状況や、世界の諸問題や、地域グルーブ間の競争的な相互関係によって、全世界の指導者逹にとって政策選択の自由が制約を受けてきているからです。特に、緊張および危機状態がある時、結 果を合理的に査定する手段もなく、主観的、直観的、あるいはしばしば感情的に選択肢を評価するという現在の慣行は非常に危険なものになり得ます。

このブロジェクトでは、世界システムは、相互に複雑に絡み合った地域モデルとして表わされます。すなわち、その地域とは北アメリカ、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、日本、その他の発展途上国である北および東南アジア、中国、ラテン・アメリカ、中近東、アフリカ、です。それぞれのモデルは、地域の事情や文化に応じて、地球物理学的、生態学的、経済的、制度的、社会政治的、価値・文化的等のレべルからなる階序として構成されています。更に、人口動態、エネルギーの生産・消費、食糧生産や土地利用の状況を研究するための特別な シミュレーション・モデルも作成してあります。このブロジェクトの中心課題は経済システムです。

私達のブロジェクトのもう一つの特徴は、人間システムの適応性および、人間社会の合目的的側面を共に認識していることです。これは、コンビュータに基づいた研究に対してよく言われる「機械論的」とか、「テクノクラート的」とかいう汚名をそそいでくれるものと期待しています。プロジェクトの手法は、実際に目標追求的政策決定者のための補助的役割を果たすものと考えられており、現実の行為者 - つまり人間 - を動かしている動機、価値、規範等に大きな余地を残しています。前に述べたように、これらのモデルは政策決定の重い責任を負 わされている人々が、意思決定過程のあらゆるレべルにおいて選択肢を評価し得るようにするためのものでなければなりません。このように、人間とコンビュータの「ゲーム」によって、ますます困難を加える世界の中にあって、より有益な選択肢を求め、また人間社会の諸問題の解決のための長期的には稔り多い経験を逭ねることができるだろうと期待を寄せているわけです。

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現在の「問題複合体」に関するこうした一連の研究や研究計画が連成すべき、主要方向はどのようなものでしょうか。

 

私は、結果として次の二つの理念が、現代の至上命令として一般に受け容れられるようになると思います。一つは、ローマ・クラブが招請した、世界の指導的政治家の非公式なザルッブルグ会議(注)で要約された考え方です。すなわち、今日、われわれはその膚の色が黑であれ白であれ、茶色であれ、東西南北地球上のどこに住んでいようと、また、ィデオロギーの相違が何であっても、あることを主要な死活の重要性を持つものとして共有しなければなりません。それは、真に世界的規模での連带感である、というものです。それなしに は、世界は、遅かれ早かれ、廃墟と化し、われわれは、それと運命を共にして滅亡の淵に引き入れられてしまいます。われわれの実に多くが、未だに国境に拘束され、国旗あるいは文化に対する忠誠によって縛られています。しかし、今や私達は、視野を広げ、「量子的」な飛躍を行なって、人類全体に対して忠誠を誓い、地球全体を自分の祖国と考えるように強いられています。なぜなら、いかなる人間集団も他と全く異なる運命をたどることはできないからです。私達一人一人の将来は、とりもなおさず全人類の将来を反映するものになるでしょう。

 

それは、ガンジー夫人〔本書対談1参照〕が、一九七二年ストックホルムで、人類同胞および地球上の全ての生物を「友人の眼で見る」よう、人類の新たな挑戦を呼びかけたのと軌を一にしますね。

 

そうです。もっとも、あまりに多くの人々が、ロで言うのと行動とが一致しないのですが。しかし、私達は、もし生き残らんと欲するならば、同胞愛からではないにせよ、ただの利己心からしてさえも、態度を変え、全ての人間、そして、生命一般と強力な結束を発展させるように強いられているのです。

私達のブロジェクトがその普及に貢献している第二の一般的理念は、人間社会の構造および管理方式に根本的な変化が必要だということです。今では、ほとんどの人人は、今日の世界の経済秩序は不当なものであり充分な機能を果たしていないという点に同意しています。それは人類の現状に適合していません。それは改造されなければなりません。しかもそれは早ければ早いほどよいの

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です。と言うのは、前進するためには、世界は現在四十 億になんなんとする、また、見通し得る将来、もっと増加するであろう人類の幸福を保障するという役割を果たし得る経済秩序を痛切に必要としているからです。

 

新しい経済秩序を確立し、百五十に達しようという国々にそれを承認してもらうにはどうしたらいいのでしょうか。

 

その件については、アルジェリアのフアリ・ブーメディエン大統領が、一九七三年四月、ニューョークで開催された国連臨時総会の冒頭演説で強調しました。彼は今日の世界の経済「秩序」の「醜聞」と彼が呼んでいる問題を提起しました。私は彼の意見に全く贊成ですし、私達は、新しい経済秩序の探求に役立ちたいと思います。しかし、それと同時に - この点はまた、明示的に提起されたことはないと認めざるを得ません - 政治秩序も改革する必要があります。主権民族国家という概念は現代社会にふさわしくありません。国家主権の原理を 神聖視している、不安定で、不合理で、時代遅れの現代の世界社会の構造上に国際経済秩序を基礎づけょぅというのは、砂上に楼閣を築くに等しいことです。巨大帝国の恐怖におびえながら、自国を守るために必死になっている弱小国を守るという点での国家主権信奉者達の主張もよく理解できます。しかし、国際レべルにおいて正当であると思われるルールに反対する彼等の諶論は、民族国家自体の正当化としては、人を充分に納得させるものではありません。むしろ、反対です。特に、民族国家が、少数集団の隠れ蓑Ga naar margenoot+になって いる(よくあることですが)時にはそうです。世界はそれぞれ全く規模もバヮーも異なる百五十弱の国家に分化されており、その各々がほとんど神聖とも言える権利を主張し合い、その偏狭な「至高の国家利益」が犯されるたびに他国の権利を侵害したり、はたまた嘘をつき、だまし、賄路を使うような現状を、もし私達が早急に変えなければ、全世界的な新しい経済秩序を建設するのは困難どころか、全く不可能だと言わざるを得ません。ですから、私は、ブーメディエン大統領の提案や、メキシコのエチェヴェリア大統領〔本書対談15参照〕が 提唱している「諸国家の権利および義務に関する憲章」 が真摯に検討され、短期的に、「早い者勝ち」の精神で、必要かつ健全な改善案として受け容れられる必要があると思っています。しかし、長期的には、人類が今日の苦境から抜け出るには、社会の基礎そのものの

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改革が必要だと思います。ある意味で、この第二の理念は、第一点として述べた世界的連帯という新理念に吸収し得るかもしれません。仮りに沈没寸前の船に乗っているとしましょう。その場合、乗組員と乗客の間には団結が生まれなければなりません。さもないと、暴動が発生し、結局は、全てがおじゃんになるでしょう。新たなルールとか、秩序とかいうのは、いわば、救命ボートの中の秩序を保っためのものであって、もはや沈没しかけている船のものではないのです。われわれの先祖は、また、フランスとかスゥェーデンとかいっ た国境への忠誠に縛られて生活していました。しかし、今日では、こうした制約を超えて行かねばなりません。今や私達の祖国は、世界なのです。

 

一九五〇年には、百万人以上の人口を持っ都市は、全世界で七十五しかあリませんでした。二〇〇〇年には、このような大都市が二百七十五に達すると言われます。例えば、ィンドネシアのバンドンでは、二十五年以内に百二十万から四百二十万にふくれあがるでしょう。

 

そうです。そしてカルカッタの場合、二〇〇〇年には人口三千万にも達することになります。もし厳格な対策を講じなければ、メキシコ・シティやサン・バゥロの人口は二千万を超してしまうでしょう。私達の子孫が余儀なく生活し、また逃避を試みるこれら四大都市や、他の巨大都市の運命は、地球上の全人類の運命にも大きな影響を与えるでしょう。バヮーの座は、これらの中心に据えられているのです。しかし、それも全体的状況を変えるものではありません。こうした巨大な集塊の中で暮す市民逹の心理状態や反応がどのようなもの であろうかと、思いやるだに背筋が寒くなるものがあります。しかし、それでも希望はあります。すでに現在でさえ、全世界で、人々が、人口、飢え、ェネルギー、環境、等々といった本質的問題を語り合っている現在の状況下では、隣人同士はいかに互いに異なっていようとも共存の道を見出さねばならないことを、先ず最初に認識するのは、一般に都市住民です。狭い地城に詰め込まれたこれらのベ都市住民は、共存が生存の同義語になったということを理解しているのです。同様に、何らかの、全世界的な反応、組織、計画の必要性が 彼等の心に芽生えてきているところに希望があります。こういうわけで、将来については、私は条件つき楽観論者です。しかし、新しい政治

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的、経済的秩序をあまり遠くない将来に確立するという考えが全くのユートビアではない、という理念自体の持つ創造的な革命的潜在力をみてとるのは、まだ困難です。いろいろな事業に着手することは可能です。世界社会の建設の時が近づいているかもしれません。今日、私達の周囲で開催されている世界的問題に関する無数の会議は、将来の世界制憲会議と言えるものの前ぶれに他ならないのかもしれません。

人類は、好むと好まざるとにかかわらず、自分の知識や技術によって、はたまた、直面する問題や困難によって、全地球的なものにならざるを得ない新しい稀類の社会に向かうでしょう。この世界社会を実現し、それを公正で秩序ある社会に変えることができるような、諸制度、諸手段、政策決定手続き、生活のルールをつくり出すのは、私達の世代の責任です。

この、より大きく、より生命力ある単位の創造は、百五十年前、ッォルフェラィン(関税同盟)の時代にドィッで生じたことと優に対比されます。当時、関税同盟は政治的統一の唯一の方法だったのです。それはまた、統一前のィタリアに生じたこととも対比されます。この半島には、多くの国家や、王国、大公国、それに外国支配下の諸地域(法皇のヴァティヵンを含む)があり、多くの実力者が住んでいました。それにもかかわらず,汗と涙をもって、このどうしようもない分裂状態に決着をつけ、新しい政治単位イタリアが形成されました。同 様動きは他の多くの国々でもありましたし、現在もある地域では続いているのです。このような統一への動きが、あまり遠くない将来、全地球的規模でも必ず起こると期待するのは単なる夢想でしょうか。

私が考えるに、今、人類社会は、多くの点で民族国家より優れたものになるであろう何物かを生み出す陣痛の段階にあることは疑いありません。かりそめにも、私は世界政府を主唱するものではありません。しかし、一連の新しい制度の体系が必要であり、それら制度のほとんどが、今日の国家や同盟などのほとんどより、より広い基盤を持たねばなりません。これらの新しい組織をつくり出すためには、単に、現在ある機能不全の国家的諸組織を拡大するだけでよいと考えるのは全く幻想かつ欺瞞です。全世界的レべルも含め、必要なあら ゆるレベルで、あらゆるグルーブの人々の利益になるよう、満足に機能するような社会をつくり出すことのできる社会・政治的制度のモデルを描くために、理論的研究と実際的洞

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察が緊急に必要なものとして望まれています。

 

しかし、やはリ依然として私にわからないのは、私達、あるいはローマ・クラブが、その緊要な提案を手にしてこのような実現目標を実地に移して行くには、どこから着手すればよいのかという、最も基本的な問題なのですが。

 

先ず三段階に分けて考える必要があります。第一に、現状をよく把握し、行動の前にあらゆる状況をよく理解することです。これから着手しようとする情勢や問題の本質とその展開の近似的な予測なしに理知的行動をとることはできません。第二のステップは、この新しい知識に基づいて、何が可能か、実行可能でかつ望ましい政策と、それから生じ得る結果を明らかにすることです。この段階は、第一のそれに劣らず、継続的なものです。と言うのは、どのような政策であれ、時々修正が要求されることもあるからです。第三段階で、決定さ れた政策を実行に移すのです。この三つの機能は継続的にオーバーラップしており、互いに関連しているのはもちろんです。これらはまた、文化的、政治的現実に合わせて行かなければなりません。例えば、政策の対象になる当の人人の資質や弱点の考慮なしに政策や戦略を作成するのは不可能でしょうし、彼等の限界、特殊性、要求、それに動機を無視して作業を進めるわけにはいきません。根本的なことは、これらはわれわれに対する挑戦だということです。つまり、先ず理解し、第二に、新しい知識をもとに何をなすべきかを決定し、そ れから第三に目標に従って行動することです。

ローマ・クラブは、これら三つのステップを全地球的規模で長期にわたって実施することを目的にしているのです。もとより、私達は全世界から集まってきた私的市民ですから、政策を決定したり、あるいは決定を促すような命令を下す権限はありません。私達はただ、政策立案者に、彼等の助言者の良心として、あるいはより人間的で合理的な方法を見つけるための触媒として活動するだけです。これらの役割は直接、ないし、マス・メディァを通して果たされますが、その過程で私達はあらゆる政策決定者や社会の有力者、政府指導者、国 際組織、それに労働組合とも接触してきました。しかし、もちろん、あれこれの方向で実際に行動に移すのはわれわれの責務ではありません。

しかしながら、広範囲にわたる世論の反応と姿勢がき

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わめて重要となります。たとえ個人は犧牲を払つてでも、今後の人類の方向と世界の方向づけと組織とを英断をもって改革しなければならないと考える人々は多く、また日增しに多くなつていると確信しています。世界中の多くの人々が、なぜ世界を改革しなければならないのか、といぅことを充分理解できるよぅにすること、これがわれわれローマ・クラブの努力の方向だと思います。

 

(注) オーストリアのザルツブルダで開催されたローマ・クラブ会議。メキシコ大統領、セネガル大統領、カナダ、スウェーデンおよびオランダ、オーストリア首相、その他各国高官が参加した。

(仲里一彦)

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監訳者あとがき

本書は、『成長の限界」をめぐる対談集の第二巻である。第一巻の日本語版は、『明日の地球世代のためにー「成長の限界」をめぐる世界知議人71人の証言』という表題ですでに出版されている。両卷の関係およびこの第二巻の構成上の特色については、本書卷頭のベッチヱィのまえがきおよび編者オルトマンズの序言に詳しい。

第一巻の時もそうであったが、今回の場合はそれにもまして、訳出は困難を極めた。その主な理由は、本書で用いられている「英語」の性質にある。本書に登場する人物は、編者のオルトマンズを含めて、すべて英語を母国語とはしない人たちである。その人たちが「英語」で、あるいは鈴木孝夫のいわゆる「ィングリック」で、語り合った録音を起こして若干の編集を加えたものが、訳出すべき「原文」なのである。(その例外は、最初にロシア語で行われた後に「英訳」されたソ連人たちとの対談であるが、この「英訳」なるものも相当な 代物のように私には思われた。)語形や文法上の問題ーたとえば ‘polycentralism’ ‘both A as B’ ‘It are......, that,......’ などーは第二義的であるが、そもそもの発想や思考の流れの中に、発言者の文化的思想的背景の違いや英語自体についてもつ教養の違いが、色濃くにじみ出ているように思われる。たとえば、 ‘We then reach rather basic conclusions with the help chiefly to understand the range and type of development undertakings and to formulate the objectives of a development policy.’といった文章は、どう訳せばよいのだろうか。

この種の「英語」は、読むよりも耳で聞く方がかえってわかりやすい(ように思われる)場合がよくある - 話し手の発音のなまりが聴き手の耳に慣れている場合にとりわけ。ところが、これが文字になってしまうと一挙にわかりにくくなるのである。

だが、対談自体の段階でも、相互のコミュニヶーションが必ずしも非常にスムーズになされているともいえないようである。編集段階で生じたことかもしれないが、質問と答がおよそ嚙み合っていない箇所もある。もちろ

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ん、その種の「すれちがい」は、ことば自体のためばかりとは限るまい。話の内容が理解されなかったり、あるいは理解されても政治的その他の考慮でわざと話がそらされているのかもしれない。

これらの点について、訳註を加えたり、原文のどちらかといえばえたいの知れないニュァンスや「味」を写し出したりする試みは、残念ながら放棄せざるをえなかった。とはいえ、おそらくは必要以上に「かい込み」Ga naar margenoot+のなされたこの訳文からも、右に述べたような点について、興味深いさまざまな読み取り方は、依然としてある程度は可能なように思われる。読者のお許しと味読とを乞いたい。

 

訳出の作業自体は、次のような手順で行なった。第二巻の英語版原稿がそろそろ入手可能になるというお話が日貿出版社の吉畸厳社長からあったころ、たまたま琉球大学の玉城政光教授を中心とするスキナー研究会の方々が、本書の第一巻を研究会のテキストにしてくださっていることを知った。この研究会のメンバーの一人である東江優氏は、私の留学当時からの古い友人であったので、同氏を通じて、第二巻の訳出をこの研究会にお願いした。私も訳者の一人として参加することで話がまとまり、第一次の訳出が左記の六人の 分担によって行なわれた。

玉城政光(対談1、2、3、6、7、12)

龟川正敬(対談8、9~11、18、24)

東江 優(対談15、16、17、21、25、26、27)

中村哲雄(対談5、28、29、30、32、33、34、35、36、42、44)

仲里一彦(対談40、45、46、47、48,49)

公文俊平(対談4、13、14、19、20、22、23、31、37、38、39、41、43)

これらの訳者の氏名は、各対談の末尾にそれぞれ示しておいた。

次いで、一橋大学大学院博士課程の長尾史郎氏に、これらの第一次訳文の原文との対照・校閲をお願いした。ただし、訳文の訂正にさいしては、なるべく原訳者の文体と解釈(複数の可能性があって甲乙をつけ難い場合)

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を尊重するという原則に従ってもらった。とくに、私が担当した日本人対談者の対談訳稿については、長尾氏の校閲後の原稿を各対談者の手許にお送りして、必要な訂正・加筆をお願いした。この労を快くお取りくださった対談者の各氏に対して、この場をかりてあらためてお礼を申し上げる。

さらに、初校ゲラの段階で、私と長尾氏の二人がもう一度原文と照合して訳文の改訂を試みた。このさいも、前述と同様の原則に従ったが、なにぶん原文がかなりの難物であったため、両名の判断と責任とにおいて、もとの訳文にかなりの変更を加える結果となった箇所も多かった。この作萊の過程で、第一次の訳者の方々の奮闘努力のあとがいまさらのようによくしのばれた。監訳者として、いま一度そのご苦労に謝したいと思う。また、ゲラ刷りの段階で、さらに実質的な朱入れを行なうことを許してくださった日貿出版社および図書印刷 株式会社のご好意も有難いことであった。

x x x

今にして思えば、本書第一巻の邦訳表題を『明日の地球世代のために』としたのは、必ずしも適切ではなかった。私としては、終末論的な勾いのするショッキングな題や、「ゼロ成長」型の流行を追いすぎるような題は、なるべく避けたかった。むしろ、比較的長期的な未来の問題を若い人々にじっくりと考えてもらい、全地球的な意識と連带精神とを喚起するよすがとしたいと考えたのであった。

だが、その後の事態の急展開を見ているうちに、明日の世代でなくまさに現在のわれわれの世代が、ある意味でー問題の解決には全地球的な規模Ga naar margenoot+での行動が必要とされているという意味でーすでに「地球世代」なのだという感を深くするようになった。他方、全地球的な「協力」が、この地球に住むすべての人にとって望ましい形の「問題解決」をもたらすという保証がはたして存在するのか、という疑問を深刻に抱くようになってきた。いうまでもないが、この第二巻に示されている「発展途上国」の代表者たちのほとんどの見解は 、協力と相互依存を通じての平等な発展を指向し要求するものである。

しかしながら、これとは対極的な見解も、一部では有力化しつつあるように思われる。たとえばアメリカの生

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物学者ガレット・ハーディンは一九七四年の論文「救命艇の倫理」(松井卷之助訳『地球に生きる倫理』。佑学社、所収)の中で、現在の世界は「救命艇状況」にあって、万人を救うことは不可能だと言い切っている。比較的恵まれた救命艇上にいる少数者(たとえばアメリヵ人)が、艇にまだ多少の余裕があるからといって、もう少し多くの人を乘せてやろうとしたり、艇外で溺れかかっている人たちに救援物資を分け与えたりすることは、艇の「安全係数」を低める自殺行為だと述べている。人口問題は技術進歩や経済成長では解決できず、人口増 加の停止ないし人口減少だけが唯一の答だというのである。

この種の見解は、とりわけ装備の秀れた「救命艇」にすでに乗りえている人々の間では、普及する可能性がある。しかし、たとえばわが国のような単独航行のほとんど不可能な救命艇の乗員たちにとっては、それは、あまり勇気を与えてくれる種類の見解ではありえない。まして、救命艇に乗れない人々は、どうすればよいだろうか。座して死を待つのか。艇の乗っ取りを策すべきか。せめて艇の底に穴でも開けて地獄への道連れを增やすべきなのか。

もしもこのような見方が客観的状況を反映しているものだとすれば、ひとはまさに「天下大乱」の時代の到来を予想せざるをえない。そして、救命艇自体の乗員の中にも、艇外の人々に対して先制攻擊ないし反擊を加えよと主張する者や、全滅の危険を冒しても万人を救うべく努力せよと主張する者、さらには艇外の人々と「連帯」して艇内で反乱を起こしたり、「良心の苛責」に耐えかねて自ら艇外に飛び出したりする者も現われるだろう。

いずれにせよ、この場合でさえ、問題の性質が「全地球的」なものであるーつまり救命艇上の人間と艇外の人間の両方にかかわる問題であるーという事実は変わらない。われわれ「地球世代」にとって必要なことは、今日ただ今、現状の性質と可能性とをなるベく正確に把握するように努めると同時に、把握しえた「客観的」な現実の基盤の上にどのような倫理的立場をとるかを自らの責任において決定することであろう。そして、本書のような書物は、その種の作業にとっての有力な参考資料の一つとなると私は信ずる。読者には、本書二巻に 盛られている、事実判断の面での極端な悲観論から極端な楽観論にいたる多様な見解のスペクトルと、価値判断の面

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[p. 489]

でのさまざまなタイプのエゴイズムやロマンティシズムやリアリズムの万華镜とを、自らの眼で精査していただきたいと思う。

 

本書の出版は、日貿出版社の吉崎巌社長の信念と情熱によって初めて可能となった。私は、もっぱら同社長の熟意にうたれて、文字通り心身を削る思いをしながら訳出の作業に参加させていただいた。しかし確かにそうする意義はあった、と仕事を終えた今は思っている。吉畸巌社長に敬意を表してあとがきの結びとしたい。

 

一九七五年九月

公文俊平

margenoot+
ノガフフーン
margenoot+
みの
margenoot+
ストリーム・ライニンゲ
margenoot+
、、

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