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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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18 ロバート·ユンク

ジャーナリスト、ロバート·ユンク (Robert Jungk) は、一九一三年べルリンに生まれた。チューリッヒ大学で現代史研究において博士号取得。一九五〇年アメリカ市民となる。現在はオーストリアのザルッブルクに居住。

もっとも有名な著作に、『巨大機械』〈一九六六年) 『未来はすでに始まった」 (一九五三年) 『千の太陽ょりも明るく』 (一九五七年)Ga naar eind〔註1〕などがある。

 

この数ヵ月、著名な科学者たちとの対談を続けてきましたが、それでわたくしショツクだったのは、たとえば原子物理学者-これはほんの一例なんですが-に、人間生活の心理的な側面について質問したら、いやそれどころか科学について質問した塌合でさえ、わたくしの話を全然理解してもらえなかゥたことです。そんなことをなんども経験しました。

 

翻訳者が必要ですね。科学者同志の話が通じなぃことはしばしばですよ。ぼくは自分を翻訳者と考える。科学者と政治家の媒体です。それはぼくが長いあいだ政治の世界に暮らして来たからです。翻訳者だけじゃなくて、大学だって、科学者や専門まがお互いに話し合うことを、また大衆や政治家に話しかけることを学ぶ学部が必要ですよ。今日の、とてつもないバベルの塔では、人々はもう同じ言語など話していないのですからね。

 

「おのれを知らざれば、敵を知らず」という中国の言葉がありますね。それが現代世界の問題ですよね。だれも同じ言語をしゃべらない。

 

そういうコミュニヶーションが働くようにしなければならない。ぼくが興味をもっているのは科学者と一般人、知識人と一般人、ふつうの人のあいだの断絶の梧渡しを手伝うことです。

持てる者と持たざる者とに、新しい分離状態が存在す

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るという気がするのです。持たざる者というのは単に物質的に貧しいのではない。持たざる者とは自分の思いつき、自分の考えをまったく表現できない人、受容、受動の永遠の運命を宣告された人のことです。人間に自分を表現する可能性を拒否したら、自分の思いつきを発展させる可能性、ガボールのいわゆる「未来を発明する」可能性-未来はぼくたち全部のものだから未来の発明を少数のブランナーや知識人にまかせず、自分の未来の発明に参加する機会を与えるのです-こういうものを拒否し たら生きる気力はなくなります。

 

訓練、教育の問題ですか。

 

いや。ぼくは創造力の研究に非常に興味をもっています。創造力を研究している人に訊いてごらんなさい、たいへんおもしろい発見があります。ィンフォーメーションの欠如は悪いことですし、経験の欠如、教育の欠如はたいがいの領域でまずいことです。しかし創造力においては教育の欠如は一つのブラスなんです。ィンフォーメーションが少なければ少ないほど、教育が少ないほど、ナイーヴであるほど、独创的であり得るのです。

 

北京から帰って来たフランスの外交官がぃったのですが、ニョーヨークにはィンフォーメーションがあリすぎる、北京には少なすぎるというんで、あなたの論でいくと中国人はアメリカ人よりも独創的ということになリましようね。

 

中国人はたしかに新しい方法を発見しましたよ。だれもものごとをこうしなければいけないなどと教えなかったからです。こうしなければいけない、そういうことばかりいわれているのです-われわれは、ごく幼いころからね。

 

ブログラムされて-

 

人生の始まりからずっと、それはかくあらねばならぬ、それはこうである、と教えられています。そうでなく、世界に生まれて来る人間はだれも自分で世界を発見し、世界をつくるべきです-自分の想像力によって、自分の知識によって、自分の経験によって。

 

おれゎれは環境によってブログラムされつつあるのではありませんか。

 

スキナーはわれわれにブログラムされつづけることを

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望む。ぼくは自分たちでブログラムをつくっていくべきだと思う。ぼくは未来創造研究会をはじめました。ドィッで、才ーストリアで、救育のない人、若い労働者、若い百姓、町の人などといっしょにやるのです。たとえばゥィーンでは若い労働者のグルーブとこれをやりました。ぼくは彼らにいいました-さあ、未来を発明してください、きみ自身の未来を。ぼくは訊いた-きみたち、いろいろ考えているだろうが、それは何ですか。何がほしいですか。教育について批判はありませんか。きみが働 いている環境について批判はありませんか。環境、この大きな環境について批判は?という具合なんです。

こういう人たちは否定的なものを並べます。たとえば職場での好ましくないことをいう。たくさんの批判点を長いリストにします。それから、ただちに変えたいと思うこと、いちばん嫌なことだけを二つ三つ選ばせる。仕事が同じことの繰り返しだという人がいる。仕事に興味がどうしてももてないという。自分の好きにやれないで、こうしろといわれるのが嫌だという。それからぼくがいう-「とし来た、仕事の繰り返しをどう変えたらいいか、いい考えがありますか。仕事場でどうして自分が仕事 のィニシャティヴをとるようにしていくか、いい考えがありますか」そうすると、みんないい考えを出します。じつにさまざまな考えを出します。それを発展させるのです。たとえば自分たちでブロジェクトを、何をつくりたいかを決めるという。これは製作管理者と話し会えばいいのですが、そういう機会は与えられない。いつも一方的に命令されるばかりだといいます。一種のブレーン·ストーミングの時間をもちまして、彼らにいろいろなことを考えつかせる。ブレーン·ストーミングのテクニ ックをぽくは使うんです。社会的な思いつきにぼくは興味をもっています。こうした人たちがいろいろなことを考えつく。それから-ここからがぽくの未来研究会でやることの第二段階で-もっとも大事な段階になります。彼らが新しいことを考えつく、それからぼくは専門家や政治家を連れて来る。ゥィーンでは公共産業大臣か教育大臣を連れて来ました。新しい教育方式、新しい仕事のかたち、こういうものを「発明」したばかりのこの人たちが政策決定者と対決するわけです。政策決定者というもの は通例、実行不可能だ、とか、無理だ、とか、高くつきすぎる、とか、こういう障害があるとかいいます。ぽくはいいます-よろしい、夢と現実が対決

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するのですよ、お互いに腰をすえて、夢を現実にするやり方を発展させてください、というんです。そうするとスバラシィことがおこる。何度となくぽくは見ました。政治なんかに興味のない人たち、政策決定などに関係ないはずの人たちが政策決定者といっしょに坐って、新しいことを実行する上の障害克服の可能性を論じるのです。こうやって、ぽくは二つのことをやるわけです。第一にぼくはじつに世界の九十九バーセントを代表する人たちを、その人たちの想像力を使って政策決定の過程 に導入する。ぼくは彼らに学習をさせる。彼らは教育されるのです。彼らのすることが実を結ぶのです。

 

それが創造力ですね。社会的創造力。ほかに大きな興味をおもちになゥていることは?

 

ぼくの第二の興味はこれと緊密に結びついています。たいがいの未来研究が想像力に欠けているとぼくは感じています。ぽくは芸術家や、いわば想像力の専門家といえるような人を未来関係の仕事に入れようとする。科学者だけじゃなくて。科学者は論理的な道を行きますが、芸術家は直観を使うビジョンの人です。

 

バオロ·ソレーりみたいな。

そのとおり。芸術家には高められた感受性があります。ぼくは未来を考えるのに芸術家的思考を入れようとする。社会における芸術家の役割りは社会主義リアリズムのように現実を人生に持ち込むことじゃなくて、政観とビジョンという特性量ではなく質を見る力、を人生に入れることだとぼくは感じます。じつは来年からザルツブルグで人々といっしょに芸術の未来のための研究所をはじめることになっています。第一に資料センターをはじめます。それから、いろいろなセミナーを開始し、最後 にぼくが研究をやります。ぼくは社会に対して、芸術家を芸術作品として適用したい。つまり、芸術家が芸術をつくらなくてもいいのです。芸術家の資源を社会全体に働きかけさせていけばいいのです。

第二段階は未来研究、未来計画の民主化ということで、これが想像力をもっと苺入することにより、特に芸術的想像力を導入して、論理的、科学的、技術的想像力ばかりがあまりに用いられてきたことに対する一種の中和剤にさせます。人間には科学や技術以上の次元があります。いま新しい動きがあります。つまりジョン·ブラットをめぐる人たち、新しい科学を語る人たちです。この科学は純粋に論理的·合理的科学よりも大きいもの、

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あまり明確に表現できないようなものを具体化していく科学です。思考になりかけているものをもっと繰り込み、もっと動的で、もっと自在なもの、そういう科学が生まれようとしています。

 

あなたの新しい本のテーマは何ですか。

 

仮題は『人間ブラス』。副題は『成長の新方向のために』。説明すると次のようになるでしょう。われわれは物質的な成長についてある種の減速状態にさしかかっている。あるいは、ある種の終点といってもいいかもしれませんね、『成長の限界』がいっているように。ぼくは成長に限界なんてないと感じます。人間的発展、社会的発展という方向においてわれわれは未開発ですよ。ぽくは、まあ、進歩の新分野とでもいうべきものは人間の能力の開発だと感じます。新しい本のなかで七つの分野を 開発したつもりです。一つはいまお話したこと、想像力です。想像力はたいへんな創造性ですけれども、いままでは埋れてきましたから、解放してやらなければならない。第二は部分部分を見ないで全体を見ることの開発。

 

MITのモテルみたいですね。

そう。あれはその方向です。第三のことは今やっていることの結果を見るということをしないで予見すること。四番目に変化を恐れず、社会に流動性、変化、実験を導入する-恐しいような変化じゃなく、自然な変化ということを実験してみるということ。第五に協力。今われわれが協力とよんでいるものは、じつはまったくの競争なんであって、たとえユニットがあっても-

 

連带責任ですね-

 

そう、ほんとの協力、グルーブ過程。どうしたら他人を兢争相手としてではなく、自分を強くしてくれるものとしてほんとうに見れるようになるか。次に第六は非終極目的性の全領域-遊びの領域、ゲームの領域、利益のために物事をやるのではない、ある結果を得るために物事をやるのではないという領域にかかわります。

 

創造ですか-

 

いや。ゲーム。遊び。自由な時間というだけじゃない、それ以上です。精神の姿勢です。ふつう何かやるのは、それが美しいからとか、何かが得られるからとかい

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うことでやるのです。ゴールがある。人間はいつも必要、外的な必要に駆られていましたから、人間の技芸はぜんぶつねにある目的、ある目標をめざしているんだと思います。ぼくの考えでは、人間開発の一つは物事をただそれが才モシロィからやるということで、その場合に何かヤマシィ気持ちをもたないということです。そして七番目のことは、ぼくが「成長する宇宙」とよぶもの。天へ向かって進めば進むほど宇宙は退いて行きます。宇宙がいつもある点までは成長しつづけているのです。 ぼくは「成長する人間」という考えを開発する。人間が神になることはないでしょう。でも、それにもかかわらず人間はつねに成長している。人間は今までのところ、自分の素質·能力のほんのわずかなバーセンテージまでしか成長してきていません。人間はこれまで考えられてきているよりも大きなものです。ぽくは、ユネスコのための論説にも書いたことですが、「心の実験室」ということをいいます。ぼくのいう「心の実験室」は十九世紀から二十世紀へかけての物理、生物、化学の実験室と同 じような先駆的な役割りをもつ。「心の実験室」では人類学者、社会学者、ィデォロギー学者、薬理学者が協力することになります。一種の、未来に向かつて開いた人類学ですね。だからぼくはエドガー·モーリンに興味をもっているんです。この方向のことを試みている人だからです。こういう「心の実験室」が人類の発展に、過去の時代の自然科学の実験室と似たような影響を与えると思っています。

 

「心の実験室」に対して科学者たちはどの程度の共感や理解をもっていますか。

 

ぼくがこういうことを考え出したのはユネスコの社会科学雑誌を見てからです。問題はこういうことです-つまり、新しい世代の若い科学者たちが成長しています。彼らは狭い学問の領界にこだわらず、目をひろく全般にひらいている。ロサックの書いた「反文化についてのノート」をご存知でしょうが、重要な問題が論じられています。ロサックは客観性の神話ということをいう。科学がじつは物事をことごとく分析しようとして全体を見ない-

 

マクルーハンのいう「区面化」Ga naar margenoot+-

 

そのとおり。だからぼくは今、若い科学者たちのあいだにたいへんな発展があると思う。彼らこそ「心の実験

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室」を運営して-

 

彼らが全般を見るから-

 

彼らは全般を見、自分の狭い学問の領域を鼻にかけないからです。たとえばハィデルべルクのあるグルーブは一つの現象でなく、複合的な現象を研究しています。彼らは複合したものを調べている。これこそものの見方ですよ。ですから、ぼくの考えを科学者がどう受けとったかとおっしゃるなら、ぼくの気持ちでは、ぼくは若手の科学者とじつにうまくいっていると申しあげたい。彼らはわかってくれるのです。年寄り科学者たちは今も精密であることのみが重要だと思っている-いわゆる「蠅の足 を数える社会学」というやつで、蠅の足を数えるだけで全体を見ない。若手はもう蠅の足など数えません。彼らは大きい問題を見る。相互関係を見る。変化のしかたを見る。特に、どのように動的であるかを見ます。ぼくが企てる万事について中心をなす考えは次のようなことです。ぼくが物理学実験室、生物学実験室、化学実験室などへ出かけて行って知ったのですが、こうしたすべての実験室で、もはや一つの原子、一つの分子などを研究してはいない。研究対象は過程、動的な過程です。原子は なく、エネルギーの爆発があって、それを原子として写真に取ることもできる。動的な過程が進行しています。別な着想はそれを限定して、その真相を見きわめる。これは社会科学でも同様だと思います。政治的·社会的現実の静的な考え方をして来ましたが、いまは動的な見方を進めています。科学はデータにもとづいています。データを読むとき、データというものはすべて無数の、現実の死がい、現実の微片です。本を読むときには事件は本とりも先に動いてしまっている。ですから変えなけれ ばいけないのは何が現実であるかという概念、何がデータであるかという概念です。物事の流れを検査するためには物事の動態を見なければならない。歴史の背後、事件の背後を走っていたのではダメでしょう。

 

おっしゃるようなアブローチをローマ·クラブはしているわけですが。

 

そう、そのとおりです。こういうダィナミックな発想を全体に及ぼす。MITのアブローチで問題に思うのは、まだ要因の数が少なすぎる、まだ限定されすぎている、ということです。人間といっているのに人間の骸骨しかないようなものです。肉が見えない。MIT報告には歴

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史の骨が見えます。大きな線は見える,か肉が見えません。呼吸がわからない。体の綸郭、生命が見えないのです。これはわれわれの認知作用の固い、古い方法と大いに関係があります。ものを見る見方の硬化した古さですね。ものを押さえつけてしまう。ファウストいわくゲーテいわく、さょうですかといって書きつける、書いたものを家にもって帰る。そんなものじやダメです。死体をもって帰っているのです。死んだものです。生きているものは逃げてしまう。何とかして生きているものに つながらなければならない。それでぼくはマクルーハンにこんなに興味をもっているんです。なぜならエレクトロニック·メディアにおいて、いわば過程をその進行において見るわけですから。

 

テレビで見るのはおこっていること、ほんとうにおこウていることの影じやあリませんか。だからニセモノじやありませんか。

 

いや、不完全だということです。二次元なんです。三次元でも四次元でもないということ。おわかりでしょう、ただの<アーヌン> (漠想) です。

 

「漠想」によって生きるのは危険じやありませんか。

イエスでもありノーでもある。「漠想」としてのみ受けとり、完全な図はこういう単一にあなた自身が追加をすることによってできあがるのだと考えるのです。

 

それはあなたのテレビ視聴メヵニックス解粎でもあリましようが、テレビ視聴者の大多数についてが問題です。

 

おっしゃるとおりです。大きな誤解があります。ローマ·クラブのアブローチで危険なことの一つは次のようなことです。『成長の限界』は現在の流行となり、しかもアゥレリオ·ペッチェイにしても、メドゥズにしても、これをそんな技術政治的イデオロギーの意図で省いていないことはたしかなのです。重要人物がおいでになった、世界は危険に瀕していると宣言なさった、さあ、われわれは速やかに何かをしなければならぬ、何をしたらよいか布告を行なわなければいけない、人々は従わなけ ればならない、世界を救わなければならない、しかも、そういうことのすべてを討論している時間などないのだ-と、いうことじゃないんです。ぽくが恐れるのは、ロー マ·クラブの考え方がすっかり一種の技術政治的イデオ

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ロギーになってしまって、少数の有力者を正当化し、彼らに彼らの考え、彼らの考える発展図を生活、生の矛盾、矛盾だらけの現実に対して押しつけさせやしないか、ということなんです。正直にいって、ぼくはフォレスターに危惧をもつ。フォレスターには、ぼく、会っています。彼はスターリニストの型です。じつはとても冷めたい、とても冷酷な、自分のバターンを現実に押しつけようとするタィプです。たとえばスラム街を維持し、新しい住居地など建設する必要はないというふうなこと をいう。まず生産性を高めよと主張する。しかし、これははなはだ危険です。だからぼくは人々といっしょになることに興味がある。人々に訊かなければ、人々がやりたいと思っていることをとりいれなければ、人々にさまざまな考えをほんとうに強制したら、計画を彼らに押しつけたら、じつは今までに例のないような暴力をともなう革命、爆発を準備していることになります。ぼくはほんとうに確信して「未来研究会」の経験にもとづいていうのです-人々は思っているよりもずっと理性的で、ずっ と創意に富んでいる、ただし、われわれは辛抱づよくなければいけません、時間をかけて彼らと話さなければいけません。インテリというものは辛抱ができない。これがぼくについていえばォッべンハィマー博士の問題点の主たるものです。オッべンハィマーはたいへんな精神の持ち主でした。特別な人ですが、しかし謙遜というものがない。辛抱ができない。単純な人々と話して彼らを理解するなんて可能性はまるでなかった。もし危機が近づいているなら-そういうことがローマ·クラブの報告に古 かれているわけですが-それなら万人の考えるところを知る必要がある。われわれの創造性と独創性の基盤をひろげ、また人々がわれわれの側にいなければいけない。こちらの考えを彼らに押しつけるのではダメです。ここのところがぼくの考え方の方向の違うところ です。

ぽくにとって『成長の限界』の中でもっとも重要な文は本の最後のほうに出て来ま-「われわれは人間のことを考えなければならない。人間に何がおころうとしているのか、人間はどのように変わることができ、どのように変わるべきであるかを考えなければならない」というのです。たぶんあなたは暗記していらっしゃるでしょうね、報告の最後のこの文を。だからわれわれは仕事をつづけているわけです。そこからこういう分野にはいっていかなければいけないから、そういうことをぼくはやろ

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[p. 160]

うとしている。ぼくは人間開発の仕事をしようとする。だからぼくの新しい人間像は「人間ブラス」なんです。人間のエリートだけをとるんじやなくて、ほんとうに、だれでもはいらなければいけない。「エブリマン」計画というものが「アポロ」計画のようにできるなら-アポロ計画はじつはふつうの人間のなかに埋もれている宝を食いものにするのですが-そうなればたいへんな発見です。そのためにぼくは戦おうとしているのです。

 

ふつうの人間を発掘して行く-あなたはそれを採油にたとえられる-

 

そういう地穀をずっと掘って行くというのはたいへんむずかしいことです。人間の恐怖や抑欝。そんなことを要求されたことがないんですから。採掘ドリルでドリルして行くようなものです。ドリルで地穀を掘って、掘り抜く辛抱づよささえあれば鉱源にぶっつかる-ずっと昔から埋もれて来た、生きた創造力です。

 

それは中国で毛沢東がやっていることです。

 

そう、そういうことをやろうとしています。

だれもが決定に参加するわけです。

 

でも、この場合にもまた問題があつて、彼は人々をあまりにある種の言語の中に押し込めようとしていませんか。この言語もまたドグマチックなものです。困つたことに、だれもが自分の記念碑ばかり建てたがる。毛沢東も自分の記念碑を建てようとする-自分の言語の中に、自分の教えの中に、自分の小さな本の中に。もし彼が開かれた存在で、そんな言語を捨て、人々にいいたいことをいわせるなら、写真だの、ィメージだの、すつかりやめてしまうなら-。われわれはみな死ぬのを恐れていますが 、新しい時間の次元を獲得し、死の先を見て、次の世代との協力を考えるなら、われわれが何をしたか、どんなしるしを残したかなんてことじゃなくて、われわれは過去から未来への人間の流れの一部にすぎないということがわかつたら、これはほんとうに大きなことです。人々は、何でもかんでも一生のあいだにおこるはずだというふうなエゴィズムをもつています。ばかげたことです。重要なことはごく徐々におこるもので、われわれは一生より先のことを考えなければなりません。いま始めたこ とが今から三十年先、今から五十年先に終わ

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[p. 161]

るかもしれないし、まだ続いているかもしれないし、今から二百年後にようやく終わるかもしれないのです。しかしだれもが今も感じているんですよ-自分の記念碑を建てよう、自分の一生のうちに記念碑を建てよう、と。それがじつは人をドグマチックにするもとであり、非情な人間にし、限られた人間にし、残酷な人間にするもとなのです。

eind〔註1〕
いずれも邦訳あり。巻末「参考文献」参照。
margenoot+
コンバートメンタうイビーレヨン

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