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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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21 エルネスト·マンデル

一九二三年にベルギーで生まれたエルネスト·マンデル (Frnest Mandel) は、ヨーロツバの代表的なマルクス経済学者の一人である。最近発行された著書『ドルの崩壞-通貨危機に関するマルクス主義者の見解』 (Decline of the Dollar, A Marxist View of the Monetary Crisis, Monad Press, New York, 1972) の中で、彼は深まりつつある国際通貨体制の危機を分析している。

マンデルはブリュッセルとバリとベルリンで学び、ベルリン自由大学で哲学博士の学位を得た。現在は、ブリュツセル自由大学で教鞭をとっている。また第四 (トロツキスト) ィンターナショナルの国際事務局員でもある。

 

『成長の限界』についてのあなたの感想はいかがですか。

 

満足感といらだたしい感じの両方です。满足感は次のようなところからきます。つまり、マルクス主義とは何の関係もなくブルジョァ的な境遇で生い育ってきたお歴歴が、マルクスと比べると一二五年もおくれながら、それでも今とうやく、無政府的、無計画的、無意識的なとめどもない成長は物質的富の基礎をおびやかすだけでなく、人類文明が生きのびるための物的条件そのものまでもおびやかすことになっていることに気づいたからです。それは人類文明の存続の条件をおびやかすだけではあ りません。人類そのものの生存維持の物的条件さえもおびやかすことができるのです。マルクスは、このことを、彼が理論研究をほとんどはじめたばかりのころから现解していました。青年時代に、彼はすでに、資本主義が生産力を破壊力にかえる危険がある、とかいています。彼の主著『資本論』の第一巻の中でもっとも印象的な叙述の一つに、資本主義の発展はたえず富の二つの源泉、すなわち人間労働と自然とを侵食し破壊する危険がある、というのがあります。今や資本主義経済学者も、

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象牙の塔の科学者も、ついにこのことを理解するようになったようです。これが満足感を覚えた玴由です。

いらだちを感じた理由は、彼らが依然としてこれらの結果をもたらす基本的なメカ二ズムについて理解していないということです。従って、彼らがその分析から導きだす結論、彼らが提案する解決策は、一面不十分であり、また、一面で彼らが癒そうとしている病気よりもさらに悪いものです。この資本主義的経済成長の破壊的な力の根本的な理由は何でしょうか。それは、資本主義体制の基礎をなす一般化された市埸経済に内在している一面的な経済的合理性と全体的な社会経済的不合理性との矛 盾です。資本主義的観点からみた合理性とは何でしょう。個々の独立企業の利潤を增大させるあらゆることです。このメカニズムの中に、もちろん、合理性の一要素は存在します。このメカニズムが、企業に費用と全体的な効果-ただし問題の企業の観点だけからみた全体的な効果-の測定を可能にするような形での経済的資源の結合を行なわしめる、ということまで否定するのはばかげています。では、なぜそれが一面的な経済的合理性にすぎないのでしょうか。費用をへらし、利潤を最大化し、あるい は成長を最大にすることを望む企業がその目的を灾現できるのは、ただ货幣というものさしで投入と產出をつき合わせ、比較することによってのみ可能となるからです。従って、貨幣価格をもたないもの、貨幣的報酬をうみださないものは何でも、定義によって考慮から除かれることになります。

つまり、「自由財」や入間の価値が除かれるわけです。空気、水、美しさ、景色、連带感、俩人の才能の発揮あるいはその不具化、といったことが「費用=効果」比較から除かれるのです。それらのものは価格をもちませんから。従ってそれらは費用の中に計算することができないのですから。一方、現代資本主義のもとでは、ますます多くの種類の費用が社会化されます。企業はそれらに対して支払いをしません。社会がかわりに支払うからです。病気、ある種の労働条件や生活条件から生ずる問題 、教育、ある種の仕事の基盤となる条件の整備、解雇によって生ずる失業、これらすベての費用の大部分は、社会が支払うのであって、雇い主が払うのではありません。従って、雇い主の観点からすれば、自由財や人間の価値を乱費し、社会的費用を増大させる結果になるような決定を下すことは、完全に合理的なのです。全社会的な観点からすれば、たとえば労働者の解雇が、人間

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に及ぼすみじめさの問題は別としても、社会的に百万ドルの費用を要するとすれば、労働者を解雇して百万ドルを「節約」することは当然不合理です。ところが個々の企業の観点からするとそれは完全に合理的です。

このような一面的な経済的合理性と全体的な社会経済的不合理性との矛盾の基礎の上に、人間の目標の問題が横たわっています。経済活動の窮極の目標は何でしょうか。マルダス主義者は、その解答が当然次のようになると思っています。「経済活動の目標は、人間の幸福を増大させること、餃大多数の人間に最大限の幸福をもたらすこと、あらゆる個人にとってその能力をできるだけ凋和的に発展させることを可能にすること、でなければならない」というものです。ところが、資本主義経済学者 や西側社会のあらゆるお偉方達はたちまち手をあげてそれを制止し、叫ぶでしょう。「いやとんでもない。幸福、人間の発展、人格、そういったものは測定不可能である。そんなものは量的にとらえることはできないのだから、たんなる抽象観念、恣意的な抽象観念の羅列にすぎない。これに対して、所得ならば量的にとらえることができる。利潤ならば虽的にとらえることができる。貨幣価格で測られる資源ならば量的にとらぇることができる。だからこういわなければならない。経済活動の目標は 、幸福とか不幸、人間の才能の発育とか不具化とかにどのような影響が及ぶかに関わりなく、それとは独立に、所得を最大にすることである、と。」まさにこの点に、資本主義のどこがまちがつているかということの、また資本主義的経済成長がなぜ人間の生存をおびやかすことになるのかということの、主要な理由が示されています。現在人類が手にしている科学的、技術的力量からすれば、単に所得を较大化するという目標によって、特に経済体制を牛耳る人達の所得を最大化する、すなわち利潤 を敢大化するという目標によって、人類の資源を測り続けようとすることは、まさにばかげた不合理なことになっているのです。

 

ちようどそれは、最近ハィンリッ匕·ベルGa naar eind〔註1〕が、利潤社会の中に、またその背後に、どんな種類の、またどれだけの種類の暴力がかくされているか、を自問した時にいったことです。あなたのおっしゃるとおリです。暴力-利潤社会が奨励する暴力-それこそまさにあなたが今ここで論じられたことです。

暴力という言葉はせますぎるかもしれません。それ

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は、あらゆる不正、脅迫、欲求不满、不平等、浪費の総 計です。それらは、競争-個人の生存維持のための闘争-にもとづく社会、のあらゆる邪悪な、反社会的な、非人間的な不道徳な結果の総決算です。結局のところ、今日生態学的危機にとって暴露されているょうな、資源の-人的及び物的な資源の-莫大な浪費をひきおこしている諸悪の根源です。

 

マンスホルトGa naar eind〔註2〕氏はオランダの青年労働者 (二〇歲から二六歳) の団体の会合で、彼らが世界のこの部分〔ヨーロツバ〕の富を第三世界の人々と分かちあう心がまえができているかどうかたずねました。労働者達はこう答えました。「われわれにはその用意がある。しかし現在の資本主義体制が支配している状態のもとでではない」と。今度は、マンスホルト氏が逆に、なぜ彼が体制の頂点で仕事をし統けているのかと質問されました。彼は「体制の内部から何かをやろうとすれはそれが唯一の方法だから」だと答えました。

私は賛成しません。私が賛成しないのは、この体制の不合理性があまりに大きく、あまりに怪物的で、すべてをのみこんでしまうために、それを内部から変えるというようなことはできないと思うからです。体制を内部から改革しようとしても、せいぜい成功しうる唯一のことは、新しい矛盾、新しい形の浪費、新しい形の不正によって、古いものをおきかえることだけです。一つだけ例をあげてみましょう。大変な生態学的危機のために、経済学者達の間にいろいろな議論が行なわれることになり ました。資本主義体制の弁護論者達によって行なわれた一つの提案は、次のようなものです。生態学的危機をもたらしてきたような、技術や投資に関する誤った決定の多くは、自由財の存在によってひきおこされたものであるから、自由財をなくしてしまおうではないか、というのです。もし空気が価格をもてば、もし水が価格をもてば、そうすればこれらの資源の浪費はなくなるだろう、というのです。まったく身の毛のよだつ結論だと思うでしょう。呼吸をするのにまでお金を払わなければならな いことになるわけです。しかも、それによって公害問題が解決するという期待も、正しくはないのです。なぜなら、現在の経済条件のもとでは、巨大な独占の力がひじょうに強いので、たとえば彼らの大気汚染に対して課される追加的な費用などは消費者に転嫁してしまうことができるからです。その誤った決定を最終的につぐなわな

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くてはならないのは、結局大衆なのです。つまりそれは、誤った決定をとり除くことにはとうていならないのです。

 

あなたは最近マンスホルト氏と論争なさいましたね。彼のことをどうお思いですか。

 

彼は、社会民主主義者、進歩的な改革家として、最善を尽くしています。なかなかよい人です。もちろん、私は、保守主義者や反動主義者、あるいはファシストよりも、彼の方が好きです。社会にとって、また労働者階級の運動にとって、彼のような人達の政府のもとにいる方が、反動主義的政府のもとにいるよりも「まだしもの悪」です。しかし、結局彼らは何も解決することができません。共同市場における彼の農業政策の決算書は、私がいったことにたいする強カな証明です。われわれが住ん でいる経済体制の全体的不合理性は、過去七-八年の間に農業部門でおこったこの大変な事態によって、明確に表現することができます。われわれが市場経済の內部で行動し続けることを強いられ、貨幣的な価格で、貨幣的な所得と貨幣的な投資を計算することを強いられたために生じたことがそれです。まず、われわれはバターの生産を破壊させる運動を経験しました。なぜなら、バターが多すぎる、共同市場で売れ残るバターが二五万トンもある、といいたてられたからです。その次には、二五万頭 の牝牛を殺そうという運動がもちあがりました。その時には、牝牛が多すぎてバターの過剰生産になるといいたてられたからです。このことだけでも、すでに飢餓がこれほど蔓延している世界では唾棄すべきことでした。局地的にみて多すぎるからもうからないという口実で、北半球の食糧生產を破壊するのですから。ところが数年後、これらの賢明な閣僚逹は、おどろくべき予期しえなかつた発見をしました。牝牛を少なくすると仔牛が少なくなる、そして仔牛が少なくなると食肉が不足するという ことです。今になつて彼らは、西ョーロツバで百万トンの肉 (牛肉と仔牛肉) の不足があることを発見したのです。牛肉価格は高騰を続けています。ョーロツバの人々の肉やバターの消費の必要を物量単位で測つて、農民には価格変動とは独立に安定的な所得を保障し、もしョーロツバの人達だけでは消費できない部分があれば「第三世界」に贈与する、ということの方がはるかに合理的だつたと思いませんか。純然たる経済的観点からしても、このような解決の方が、マンスホルト氏が過去何年にもわ

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たって共同市埸に導入したような過剰生產と過少生產、価格崩壊と価格賸貴の循環的な反復よりも、はるかにむだが少なかったでしょう。マンスホルト氏はそうやりたくてやったわけではありませんが、彼は資本主義市場経済の行政官として、そうせざるをえなかったのです。

 

ハーバート·マルクーゼGa naar eind〔註3〕が、労働者と永久革命の問題についてあなたのことを引用していますGa naar eind〔註4〕。自由世界の労働者は、どのような形でわれわれの社会のもっと合理的な社会的設計に影響を及ほすことができるでしようか。

 

結局のところ、万事が労働者階級に依存するのです。労働者階級こそ、社会が今日組織されているような形とは根本的に異なった形に社会を組織することができる、唯一の階級です。私はできるといいました。私は必ずするとはいいませんでした。そうでなければ私は今のように革命運動に参加しようとはしないでしょう。労働者はその道に沿って進むように教育され、組織され、助けられなければならないのだ、と私は思います。波らこそ、市場経済という形で組織されているものとは根本的に異 なつた基礎の上に、つまりマルグスが協力体をなした生產者とよんだ基礎の上に、生産と消費とを再組織しうるだけの物質的、社会的潜在力をもつ唯一の努力です。社会の生産者および消費者大衆が、あらかじめ、意識的に、熟慮をもって、民主的にかつ十分な情報を得た上で、経済的資源を何のために用いるのかという優先順位を決定し、またその資源を結合させる方法を決定しなくてはなりません。こうすれば、生態学的危機をもたらしてきた全過程の九五バーセントが除去されるでしよう。その ような経済によってのみ-自主管理という民主的な基礎の上にたった社会主義計画経済によってのみ、無政府的なガン細胞のような成長を根本的に除去し、そのかわりに計画され馴化された成長と私がよぶところのもの、すなわち人類のいくつかの優先的な目標にもとづいた人類の統制に服している成長を、もたらすことができます。

 

技術の発展が現在の璜境危機の、あるいは地球の危険な状態の基本的な原因ですか。

 

いいえ、そうではないと思います。技術は人類にとって生活を楽にするのにひじように役だってきましたし、また社会主義社会、平等なそして自由な人間の社会、を

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可能にするのに役立つものです。技術に問題があったのは、私的利潤追求のためにそれが不合理な方向に歪曲されたからです。私には、技術の破壊的な結果の增大は、主として過去三〇年ないし四〇年の間に、技術の不合理な発展であることが今日では明らかになっている若干の事情の結果としてのみ、生じてきたのだと思われます。あらゆる技術の発展が環境に対する危険を增大させるものだというのは誤りです。

 

バリー·コモナーGa naar eind〔註5〕と同じ方向で立論しているように思われます。

 

はい、コモナーやその他二、三の生態学者が、この問題の理解をすすめる上で大きな貢献をしてきましたし、又神秘的で不合理な公式とよばれるべきものを清算しつつあると思っています。万事が技術の無責任な利用から始まったのです。人間の福祉の正しい計算あるいは評価とは結びつかずに、ただ若干の強引な私的利益集団に無責任に従属して技術が利用されたからです。二つの例をあげてみましょう。一つは自動車の発展です。自動車は多くの異なった形をとることが可能でした。結局特定の 形のものが選ばれることになりましたが、われわれが知っているようなあらゆる汚染をうみださないように開発することも可能だったのです。ところがそれは、アメリカの基軸をなす独占体が政府の強力な支持をえて下した決定の結果として、無責任な方法で開発されたのです。第二の例はコモナーがあげている例で、石けんにかわる洗剤の利用です。これは過去三〇年間の化学工業の発展に関係しています。このような点で、マルクス主義経済学者と生物学者や生態学者は手を結びます、コモナーは 、化学工業がその「新製品」の流れを、環境に及ぼす長期的影響が確定できないうちに、たえず注ぎこむことによって、大変な生態学的悪夢を生じさせてきた、とのべています。マルクス主義経済者はそれがなぜかを説明します。今日みられる独占的な超過利潤の主要な形態は、技術料ないし技術にもとづく超過利潤です。その種の超過利潤を実現するた化には、新製品をたえず市場に投げ出さなければなりません。超過利潤がえられる期間は限られています。超過利潤はふつう五~六年しか続きませ ん。コモナーは、新製品の環境に及ぼす影響を研究するのには六年以上かかる、といっています。まさにこの点にこそ、資本主義の本性、つまり利潤追求、と生態学的危機との関係が簡潔にあらわれています。

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人類にとってこれからの二十年をどうごらんになリますか。

 

私は、二〇世紀のおわりごろが人類史上決定的なものになると思います。われわれはすでに数十年にわたって、古典的なマルクス主義者が定式化した大きな選択、社会主義か野蛮状態かという選択に直面しています。過去においてはこれが宣伝スローガンだと思われてきました。われわれは第二次大戦を目撃しました。われわれは、ァゥシュビッツGa naar eind〔註6〕を目撃しました。われわれは広島Ga naar eind〔註7〕を目搫しました。われわれはきのこ雲の脅威のもとで生きているのです。われわれはまた、生態学的破局の脅威のもとに生きているのです。この点は、メドゥズの報告が正当に人々の意識にのぽらせた点です。その計算が正しいかどうか、悲観的にすぎないかどうか、といった問題は別として。われわれは、社会主義か野蛮状態かというこのジレンマが、ひじょうに具体的なものになってきたことを十分理解しています。おそらく今世紀末になるまでに結論はでるでしょう。人類にはもはや、世界 的規模での自由企業というぜいたくを、つまり原料資源の自由で無責任な利用を、認める余裕はありません。そのかわりに、世界的な計画的社会主義経済が生まれなければなりません。それは、民主主義の拡大と個人の自由の増大という条件のもとで、導入されなければなりません。それが私の信条です。そういう形で行なわれなければならないというのは、三〇億の人類に何をしなければならないかを命令することができるような黑幕とか「組織班」とかコンビュータは、存在しないからです。どの ような合理的なことがおこなわれなければならないかについて、自分達の間で討議し自分達の問で決定する、という条件のもとでしかこの問題を解決することはできないのです。自分達でまず何がもっとも優先的に行なわれなければならないかを決め、ついで、それを実現するためにどの程度まで働くつもりがあるかを決めます。脅迫によっておしつけられた決定は、早晚くずれさってしまうでしょう。

eind〔註1〕
ドィッの小説家。一九七二年ノーべル賞受賞者。
eind〔註2〕
対談20〈シツコ·マンスホルト〉参照。
eind〔註3〕
対談48〈ハーバート·マクルーゼ〉参照。
eind〔註4〕
Counter Revolution and Revolt, Beacon Press, Boston, 1972, Chapter 1, The Left under the Counter Revolution, page 6. (Ernest Mandel, Workers and Permanent Revolution.)
eind〔註5〕
対談26〈バリー·コモナー〉参照。
eind〔註6〕
ナチスのユダヤ人収容所。
eind〔註7〕
アメリカによる日本に対する歴史上最初の原子爆弾投下地 (一九四五年八月六日) 。

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