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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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29 エドワード·ホール

エドフード· T·ホール (Edward H. Hall) 教授は、ー九ー四年ミズーリー州ゥェブスター·グロープズで生まれた。人類学をデンバー大学とアリゾナ大学で学び、一九四ニ年コロンビア大学で博士号を得た。

ー九四六年にはデンパー大学の人類学部長に任命された。ー九五ニ年から五六年まで、ヮシントン医科大学で教鞭をとり、一九六三年にイリノイ工科大学の人類学教授となつた。一九六七年以来は、イリノイ州エバンストンにあるノースゥェスタン大学経営学大学院の人類学および組雉論の教授である。彼のもっともよく知られたニ著は、『かくれた次元』Ga naar eind〔註1〕(ー九六六年) および『沈黙のこ とば 』Ga naar eind〔註2〕(一九五九年〕である。

 

あなたは、『沈黙のことは』の中で、パクテリヤから始まって、人間自身に終るあらゆる生き物は、自分を外部環境から区別する肉体的境界をもっている、とのべておられますね。そして、あらゆる有機体が、どこで始まりどこでおわるかという探知可能な限界をもつことを強調されたGa naar eind〔註3〕『成長の限界』は、環境を探検し破壊し資源を枯渴させる人間の能力の限界を計算しょうとする一つの努力、いいかえれは合理的方法にょる地球の管理を開始す るための一つの努力です。

 

確かにこの惑星にも探知可能な限界があります。『沈黙のことば』で私が考えていたのは、諸文化間の関係についてであって、地球全体についてではありませんでした。ヒトがパクテリャとともに始まり、地球とともに終わるものだと'いうことはまったく明らかです。私が同じ一つの文章の中でパクテリャと人間とを同時にとりあげた理由は、人々が、自分逹は最初から敢後まで、またいつだって、生きた生物的有機体なんだということを忘れている、という点にあります。つまり、人間は究極的に は宇宙の法則に従わなくてはならないということです。そし

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て、もし人間が宇宙の法則に逆らうとすれば、それは己れの危険を賭してそうしているのだということです。人 間が現在直面している問題というのは、彼が、自己の延長物 をGa naar margenoot+、外にくり広げられている亊物と不可避的に混冏する、いいかえれば、延挺物を現突と混问するということです。したがって、ー個の生き物としての自分を経験し始める地点まで、人間をたえずつれもどさなくてはならないのです。われわれは、人間らしさを多少とも失ってしまっていないかぎりは、今われわれ。か環境に対してしかけているようなことは決してしないものです。『成長の限界』についていえば、まったく明らかなことですが、限界が何であるかを確定しよう という考えは正当であるばかりか本質的なのです。不幸なことに、これらの研究は、現実にからまりあっている諸関係の方が、そこで考嫩に入れられているものよりはもっとずっと拨雑だ、という理由から批判されてきました。私の知る限り、そんなことはMITグループの人逹自身が、まっ先に認めている点なのです。それはそうだけれども、まずどこかから始めてみるしかないじゃないかということなのです。それにしてもわれわれは、人間の頭のなかものぞきこんでみなければならないでしよう。と いうのは、人間の頭は、今まで設計されたどんなコンビュータよりももっと すぐれたコンビュータだからです。

 

人間は、その領分をほとんど僂じられない範囲にまで広げて来ました。われわれは宇宙のことを、性のことをとリ扱うのとある程度同じようなしかたでとリ扱っています。それについてあからさまにはしゃべらないのです。人間が宇宙空間へと逃避しつつある時に、あなたは、人閗に向かって自分自身を、その人閗らしさを、再発見してほしいと望んでいるように、私には 思われますが。

 

それはひじょうによい点をおつきですね。われわれは宇宙にのがれることができます。大きなおもちゃをもって遊ぶこともできます。そのこと自体はべつに悪いことじゃない。しかし人間は複雑です。あなたがいわれたように、人間は、時には、このおもちゃをこの地球上にある人間にとっての基本的な問題を回避するために使うのです。しかし、いつでもそうだというのではありません。人間が月に行ったことの副産物のーつは、はじめて人間が地球を見、それがいかに小さいものであるかに気づ いた、ということです。その点でわれわれは再び、地

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球がほんとうに限られたものである、という先ほどから話していた問題にもどってきます。人間にとっては、自分たちが動かしているシステムが無限に大きいものではないということ、娥細でもろいものだということ、したがって細心の注意をもってとり扱わなければならないものだということ、を認激するのがむずかしいのです。ある意味ではそれは花のようなものです。というのは、注意深くそして大きな愛情をもって育ててやらなければならない、ということです。残念ながらわれわれはま だ、そのような点までは到連していません。われわれが地球の生態系を破壊してしまわないうちに、そこまで到達できればよいと思います。

 

「虚栄に対するもっとも確実な治瘵は孤独である」という卜マス·ウルフの有名な。葉はご存知ですね。だれも、この孤独であリうるということの価値を否定しえないでしよう。しかし、孤独になる機会はたえず減少しつつあリます。

 

それは一冊の本になるような問題です。私の『かくれた次元』Ga naar eind〔註4〕という本は、このひじょうに込み入った主題のあるー面について論じています。人間が時には孤独であることを必要とする、ということはまったく明らかです。しかし、人が孤独になろうとする時のやり方は、さまざまあります。これはあまり広く理解されていない点です。たとえば上流階級のイギリス人にとっては、孤独になりたいと思えば、ただ話をやめさえすればよいのです。彼©屋敢に住んでいる人 たちはそれだけで彼が邪魔されたくないと思っているということを了解するはずなのです。これに対して、もし彼がドイツ人なら、扉のむこうに-ひじょうに厚い扉、時にはニの扉の向こうに-行き、それをしめます。ドイツ人はこのような扉を必要としますし、また音を連蔽する壁を必要とします。

私は、これら二種の人々を、遮蔽従属および遮蔽独立と名づけました。人によっては、連蔽物が必要なのです。彼らはそのように育てられたのです。あなたのお国の人にも、似たようなことがあるでしょう。このことから、新しい建築方式とか敢近建てられつつあるたぐいの建物に関する問題が生じてきます。それらは安すぎる (堅固でない) のです。音が壁を通してはいってくるために、人々はもはや自分の家の中ででも孤独にはなれないのです。これは深刻な問題であり、ストレスを起こすもとをつくります。あなたのお国のヒェデルデイー·ドッブ博士

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は、このような新しいアバートで宵てられた子どもたちを研究しました。そんなアバートでは、両親が栢木遊びを許さないのです。倒れる音が階下の人の邪魔になるからです。粗末な家を作ると、竒を立てるわけには行きません。これでは子どもが育ちません。ふつう子どもたちが遊ばなければならないような遊び方ができないからです。それが家の設計のためなのです。家のために何ギルダーかを節約したところで、その中に住む人をだめにしてしまってひきあうでしようか。どうしてこんなこ とがおこるのでしよう。ヒェデルディー·ドッブは、学習と筋肉の利用との関係が密接であることを発兄しています。もし子どもたちが床をはったり、のほったり、体操したりすることができないと、その子どもたちは学習にも困難をきたすのです。

しかし、孤独になるというのも抜雑なことがらです。まずそれは文化的なものです。アラブ諸国では、孤独になろうとする人は、きちがいだと思われます。もしあるアラブ人が自分の部屉に入って扉をしめたら、他の人たちは楮神科医をよぶことを考えはじめるでしょう。人々の住んでいない天阗は地獄だ、というアラブのことわざがあります。かつて私がアラブ人に彼らの空間の利爪のしかたについて尋ねていた時、私はよく「ひとりになりたい時にはどうしますか」と聞いたものです。答はきま って「だれがひとりになりたがるものですか」でした。あるいは、「だれがきちがいになりたがりますか」ともいいました。したがってそれは、その人の文化によることであり、その人がだれであるかによることです。

 

「われわれは真理という病いで死なないように、芸術をもっている」とかつてニーチェがいクたのを思い出します。あなたは芸術家をたいへん重視していらっしゃいますね。芸術の歴史は文字の歴史の十倍も長い、と軎いておられるGa naar eind〔註4〕。芸術家が世界を認識する方法から、学ぶべき多くのことがある、とも主張していら っしゃいますね。

 

これまた簡举な問題ではありません。最初の涧窟壁画はすでに芸術です。芸術は少なくとも四万年の昔からありますが、文字の方は最も早いものでもやっと四~五千年前に始まりました。芸術のない世界なんて想像もつきません。自分が芸術なしの生活を送るなんて考えられません。私が芸術に親しむ理由は、それを楽しむからであり、またその他に自分の絵からひじょうに多くのことを学んだからです。レンプラントGa naar eind〔註5〕は、彼の時代には革

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命的な画家でした。知觉は人間の空間経験に関連していますから、私は、他の芸術家と並行してなかんずくレンブラントを研究しました。レンブラントは、目の網膜が記鉍するものをひじょうにたくみに絵にしました。レンブラントの絵を研究すると、網膜がじっさいどのように物をうつすのかがよくわかります。あなたももちろんご存知でしょうが、彼の絵には一つないし三つの、ひじょうにあざやかで明るい個所があるのが普通です。もしあなたがそのような個所の一つに視線を固定し、それ から絵からの正しい距離に立つとすれば、視線の中心を離れて外縁部に近づくにつれて目の鮮明さがぼやけるのと正確に同じ割合で絵の鮮明さも.ほやけていくのです。もし鑑賞者がレンブラントの絵を正しく見るならば、それらの絵が三次元になっていることがわかります。それは実物のように見えるのです。そうするには、まず絵の中の鮮やかな個所を捜し、そして自分の目を動かさないことです。そうすれば、絵にかかれている対象があたかも自分と一緒の部屋の中にあるように見えます。このこ とからわかりますように、レンブラントは、人間がどのように物を見るかにひじょうに深い興味をもっていました。彼の時代の画家たちは、もつとずつと強くいままでのしきたりによって支配されていたのですが。

次にモンドリアンGa naar eind〔註6〕を例にとると、これはまたひじょうに違った絵です。モンドリアンの作品は、ただ線のつながりだけだと思えるかもしれません。しかしそれ以上のものがあるのです。モン·トリアンの絵は、脳の視笕野の地図をつくるのに役立ちます。視觉野に関する最近の研究から、ニのことがわかりました。視党野は、とりわけ輪廓をとらえるのです。もし物のはじがみえなければどうなるか想像してごらんなさい。物のはじがみえなければ物につき当たり、舗道のへりや堪から落っこち たりしてしまいます。ある物を他の物から区別することができないのです。脳の視觉野は物の輪郭を、いわばそれを誇張する形で、擗成するのです。そのおかげで、人間は自然界のほんのわずかな動きをもとらえることができます。脳のことはしらないでモンドリアンがやったことが、輪郭を強調することだったのでした。

ビカソGa naar eind〔註7〕も私が愛好する一人です。彼はたしかにあるものを釗始しました。今アメリカにはミス·ピーチという漫画があります。顔の横に目がかかれているのですが、だれもそれに気がつきません。それがひじょうに自然にみえるのです。ピカソはまさに時代に先がけていまし

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た。ともかく彼の絵をみてごらんなさい。そうすれば、仕事をしている時に彼がどんな気持ちでいたかが、多くの場合わかります。彼はひじょうに明快で、ひじょうに自然で、ひじょうに屈託がないので、まるで生涯を通じてすベりつづけてきたスキーャーみたいです。スキーを彼から切り離すことはできません。スキーは彼の一部です。彼はもはや意識的にすべっているのではありません。ちょうどわれわれがしゃべったりする場合のように、完全に自然にすベっているのです。

 

異なった人種や異なった文化の間には異なクた感觉の世界がある、とあなたは書いておられましたね。アメリ力人とアラブ人では触覺もちがうし感情もちがうGa naar eind〔註8〕、と、『成長の限界』がめざしているようにこの地球を組雄するためには、どうしたら世界中のまったく異なったもろもろの文化をとリ扱いうるようにそのモデルを改蕃することができるでしようか。全地球を管理する組雄をつくる研究に、どうしたらこの点を附加することができましようか。

 

それは、今日救育者が疽面している問趙です。それぞれ異なつている子どもたちを、どうとり扱つたらいいか、という問題です。子どもたちは、ほとんどー人一人違っていることがわかっているのです。それは、都市計画者が直面している問題でもあります。異なった感覚的欲求をもつ人々が、同じ町に住みはじめているからです。あなたが提起した問題は、どうしたら種類の異なった人々に対応した設計ができるかという問題なんです。

 

システムズ·ダイナミクスをやっている人々が、人類半者の助力をうけて、彼らのモデルに新しい変数を導入するには、どうすればよいでしょうか。現状では科学者の職業的嫉妬心のほうが、共同して地球規模の問纽を研究しようという努力をしのいでいるようにみ 尤ますが。

 

学者たちをどう扱ったらよいかはわかりません。

 

あなたがモデル作りに参加すべきです。

 

それは明らかです。私どもは、MITの人達と一緒に仕事をすべきです。

 

オランダのティンべルへンが、今、第二のモデルの作業をしています。しかし、あなたのような人たちの

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参加が今もっとも緊急に要請されていることはたしかです。

 

たとえばティンペルへンのような人こそ、モデルつくりにまず敢初に参加してもらうべき人でしょう。なぜなら、フォレスターやMITのコンビユータ関係者はティンぺルへンのシステムならすぐ理解できるでしようから。それは単純なシステムであり、何よりも人間的なシステムです。そしてティンベルへンはすばらしい科学者です。彼の仕事は完全無欠です。

 

私は経済半者のティンべルヘンGa naar eind〔註9〕のことを話して いるつもりでしたが。

 

いや、私は比較行動学者のニコ·ティンペルGa naar eind〔註10〕のことをいったのです。彼ももとは才ランダ人だったんでしょう。彼は、システムを、生きたシステムを扱っています。比較行動学者をシステム論の人たちの仲間に加えて作菜を進めることができれば、次には人類学者、社会学者、その他を加えていくことができます。

 

そんな具合に進められるベきだというのですね。

段階的に作業をするものだ、ということをいっているのです。だれだって、まずできることからはじめて、少し饭雑なことに進み、それからもう少しむずかしいことに進んでいきます。われわれは、ニつのものを必要としています。アィデアと人です。それを合体できるのはだれでしようか。そのどちらがより重要かをいうことは、じつに困雔です。今のところは決まり文句が幅をきかせていますから。この点はこのくらいにしておきましよう。

 

そうしましよう。しかし世界は政治里たち、自称政治家Ga naar margenoot+遑によって支配されています。どうしたら科学者が、知識をもつ人たちが、髟響を与えはじめるようにしうるでしようか。今日、地球は知識による管理を必要としているのであって、累を播得するための愚にもつかぬ宜伝やみえすいたうそなんか、必要としてはい ないんですがね。

 

今日われわれは、未来のことを、そしてマクルーハンGa naar eind〔註11〕のいわゆる人間の延长物のことを論じています。だが、延長物は総合的思考の敵です。われわれは何とかして、延長物の線的機能にうちかって総合的な性質をもつことがらに復Wしなければならなくなるでしよう。これ

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こそ拫本的な革命です。われわれは今、線的思考の型から総合的思考の型へと移行する過程にあります。

 

日常みかけられる反社会的行動の大部分は、かならずしも悪意から出たものではなく無知から出たものである、というのがあなたのご意見ですね。われわれは教育制度全体を再設計しなければなリません。教育制度は、革命的な変化を必要としています。

 

まったくそのとおり、学校は改造を必要としています。多くの場合、完全にひっくりかえし、再建し、新しい思想をふきこむ必要があります。それには時間がかかるでしょう。しかし、他の学問分野に橋をかけようとしている学際的な科学者たちに、事を始めてもらうこともできるでしょう。多分、彼らはそれ以外の人たちも何人かは仲間に加えようとすることでしょう。つまり、関連づけを行ない、物事を合体し、自分の専門分野の外に喜んで出ようとするような人々の手で、まず最初の仕事が始 まるのです。私自身についていえば、私の生涯のその時々に、ほとんど十指にあまる異なった分野をとり扱ってきたことになります。

eind〔註1〕
邦訳『かくれた次元』日髙敏隆·佐藤共訳、みすず書房 (一九七〇年)
eind〔註2〕
邦訳『$のことば』国弘正雄他訳、南雲堂 (ー九六六年〕
eind〔註3〕
Silent Language, Chapter X: Space Speaks, Page 146, A Forcett Premier Book, Greenwich, Connecticut, 1959. (註2の邦訳ではニ〇九頁)
margenoot+
ィクステンション
eind〔註4〕
The Hidden Dimension, Chapter VI, Visual Space, page 81. (註2の邦訳ではー一六頁、ホール自身はそこでは「十倍」ではなく「三倍」と書いている。)
eind〔註4〕
The Hidden Dimension, Chapter VI, Visual Space, page 81. (註2の邦訳ではー一六頁、ホール自身はそこでは「十倍」ではなく「三倍」と書いている。)
eind〔註5〕
オランダの画家、銅版画家 (ー六〇六~ー六六九年)
eind〔註6〕
オランダの画家 (ー八七ニ~ー九四四年)
eind〔註7〕
スペインの画家、彫刻家、フランスに定住 (一八八ー~ー九七三年) 。
eind〔註8〕
The Hidden Dimension, Chapter I, Culture As Communication, page 3. (註2の邦釈では六 頁)
eind〔註9〕
対談3くヤン·テインべルヘンソ参照。
eind〔註10〕
テインべルへンの著書の邦訳としては、『動物のことば』、渡辺、日高他訳、みすず書房 (一九五七年) がある。
margenoot+
ステーフマン
eind〔註11〕
対談12くマーシヤル·マクルーハンン参照。

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