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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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41 ロバート・ファーノ

ロパート・M・ファーノ (Robert M. Fano ) 教授は、一九一七年イタリアのトリノで生まれた。一九三九年アメリカに渡り、一九四七年マサチューセッツ工科大学で電気工学の博士号をえた。一九五六年、同大学の電気通信教授に任命され、一九六二年には、工学部のフォード記念講座教授に任命された。ファーノ教授は、ネットワーク理論、マイクロ波、電磁気学、通信およびコンビユータの分野で研究を行い、業績を発表している。重たコンビュータ通信システムの社会的役割に関する特殊研究も行なっている。

 

世界中のいろいろな人達と会う今回の旅行の間に、私はコンピュータの有用性について多くの意見をききました。エドワード・テラーGa naar eind〔註1〕博士は、コンビュータが極めて危険で人を誤らせるものだと感じていました。ハーマン・カーンGa naar eind〔註2〕は、アメリカの最初の八台のコンヒュータは彼の監督下にあったもので、彼は十分コンピュータについて知っており、コンピュータが信頼できないものだと強. 調していました。あなたはフォレスターGa naar eind〔註3〕のチームが試みたように、未来の地球の管理の問題にとりくむ手段として、コンピュータがもっとも有益な手段であるとお思いですか。

 

コンビュータには、社会の運営について研究することと、社会の運営をすることそれ自身と、の二つの役割があります。両者はかなり異なった役割です。特に第一の役割において、コンビュータは定式化された問題に解答を与える優秀な手段です。真の困難は、解をだすことの方にあるのではなく、問題の定式化の方にあります。成長の研究にコンピュータを使用することをめぐる議論が真にかかわるのは、この点です。定式化の点です。定式化の問題は全面的に人間の領域にとどまっています。コ ンピュータはたずねられていることに答えるだけで、何を

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たずねるべきかを教えるものではありません。

 

たとえばエドワード・テラーは、コンビュータは私にだれが友達であるかを教えることはできない、といいました。

 

それこそ、極めて重要なコンピュータの一面です。もしわれわれが、その構造が複雑すぎて人間だけでは処理できないような問題にとりくもうとするならば、コンピュータと人間との非常に緊密な協力関係を確実に実現させなければなりません。問題の定式化の過程と問題の解決の過程が本質的に平行していることを、われわれは十分に承知しています。自分が問題を正しく定式化したかどうかを知るためには、その定式化の結果についてある程度解明しなければなりません。つまり、事実上問題の 解の解明を意味する作業をしなければなりません。このように、問題はしばしば再定式化され、満足な解が得られるまでに何回も解かれるのです。従って、コンピュータと緊密に交信する能力、いわば人間の情報処理をコンピュータの情報処理と混り合わせる能力は、きわめて重要です。

 

マーシャル・マクルーハンGa naar eind〔註4〕が脳の「地」とよぶところのコンビュータは、脳の延長物とみることができるでしょうか。

 

私はこの種の言葉使いにはいつも用心しています。しかし、私はコンピュータを知能の増幅機とよぶことはたしかにできると考えています。それは、われわれが今日利用している動力機械、たとえば電気ドリルとか洗濯機などを、筋肉の増幅機と考えることができるのと同じ意味でです。つまりそれは力を増大させるだけではなく、われわれの筋肉の正確さやたくみさをも増幅させる装置であるとみることができます。

しかし、私は、コンピュータには社会的な観点からみてはるかに重要なもう一つの側面がある、と思います。すなわち、人々の間の重要な知的通信を促進する能力がそれです。われわれは、通信ということで電話とかテレビその他を考えます。しかし、これらの装置が果すことといえば人々の間の距離をとりのぞくことだけです。電話のおかげで、何千マイルものむこうからまるで隣にいるみたいに話すことができます。しかし、電話は決して通信の知的な過程を助けたりはしません。実際、私はど うすれば私の心にあるものをあなたの心によりよく伝え

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ることができるでしょうか。電話やテレビはその点では助けにならず、だからこそわれわれは助けを必要とするのです。

 

本とは、そいつを読むまでは人に利用できるようにならないような知識を含むものだ、とあなたは書いておられましたねGa naar eind〔註5〕。コンビュータは読んだリ学んだりする過種を促進する役にたつでしょうか。

 

この間題には二つの面があります。まず第一に、知識を直接に利用可能な形で貯える方法がはたしてあるかということです。すなわち、人は知識を、自分自身でそれを吸収することなく、またそれに関連する知的技能を行使することなく、利用することができるかどうかという問題です。答は暫定的な肯定のように思われます。今日では、知識を、人々がそれを直接に利用することができるような形で貯えるプログラムが存在しています。たとえば、このMITで私の同僚のモーゼス教授とマーチン教授に よって開発されたシステムがそれです。彼らは、きわめて有能な数学者としての知識を備えたコンビュータ・システムを、作り出しました。だから答はイエスだと思います。知識を直接に利用可能な形でコンビユータ・ブログラムに貯えることは、可能なように思われます。これが一つの観点です。

しかし、私はさっきは人々の間の通信を促進する過程を問題にしていたのです。どんなことが問題なのか一例をあげて説明してみましょう。一般的にいえば、二人の人が同じ種類のことに輿味をもつことがありえます。しかししばしばみられるように、一人の観点はもうー人のとは違っています。もし私がよい教師なら、あなたの観点を理解して、ものごとをあなたの観点から説明するようにつとめます。それが教師の技能です。しかし私があなたの観点を正確に知ることはあまり易しくはありませ ん。もしあなたが私のいっていることを本当に理解しようとするのならば、翻訳過程が存在しなければなりません。つまりあなたは、その知識をあなたの観点に翻訳するということ、いいかえれば、それをあなたの準拠体系に適合させる、あなたの心の中にすでにあるその他の知識の中にそれを適合させ結びつける、ということをしなければなりません。この翻訳過程はきわめてむずかしくかつ複雑で、私の意見では、これが人間の通信にとっての少なくとも一つの障害です。人々はお互いに話をしま すが通じあいません。私はコンビュータが、ゆくゆくは、

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この点で人々を助けることができるようになるだろうと思うのです。

簡単な例でこの点を説明してみましょう。コンピュータに対して、たとえばある対象のことを説明してやると仮定してみましょう。そのさい私は、その対象を正面からみたところを思いうかべます。それが私の興味です。これはもちろんつまらない例です。ところが、あなたの興味はそれを後ろからみることです。そこで、コンビュータはひじょうに簡単にそれをひっくり返して、ディスブレイをかえてみせます。私がある観点から対象を叙述し、コンピュータはその観点を、文字通りあなたがその 対象をみている方向そのものを翻訳しなおし、そしてあなたはもう一方の側からそれをみることができるようになる、というわけです。もっと一般的にいえば、コァビュータが知識を貯えているのだと考えることができます。多分その知識は、ある入から得られたものですが、しかし、他の人に対してもその人の要求に応じた異なった仕方でそれを提示することができるわけです。実際、コンビュータは私と会話することができ、私から知識を吸収します。その知議は貯えられます。それから他の人が コンビュータと会話して、その知識を彼に適合した形で、彼に適合した観点から、ひきだします。これは将来の問題ですが、ただわれわれが今日やっていることからみて、将来それが可能になると考えられるのです。その種の例の出現がすでに知られはじめています。小さい例で、つまらない例ですが、われわれはそれをやりかけているのです。これが通信の一つの形態です。

もう一っの通信の形態については、私は、データ呈示可能な通信とよんでいます。われわれがすわって何か論じている時、何ベージもの論文やデータが必要になることがあります。われわれはそのデータを一緒にみなければならないのです。これは具合の悪いことです。コンピュータはこの点を多いに改善するがことできます。コンビュータには情報を貯えておくことができ、われわれ適宜、お互い同志、あるいにまたその情報自体と、コンビュータを通じて交信しあうことができるのです。ある会 合を考えてみて下さい-この実験は実際に行なわれました。委員会のような会合で、各人はコンピュータ・ディスプレイ装置の前に座っています。私が何か背景をなす情報、あるいは前に示された情報を必要とするとします。私はコンビュータにそれを示すように求めそれが呈示されますが、そのさい他の誰をもわずらわすことは

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ありません。このような形にすれば、会話の中で利用しうる非常に豊かな情報がえられることになります。

 

テレビ圏面のようなものの上に現われるのですか。

 

そのとおりです、この画面は各個人が自分で操作できるようになっています。そして彼ば他のだれをもわずらわす必要がありません。人は自分が必要とするものをちょうど見つけだすわけで、別の人はまた別のものを見つけだすことになります。

 

イエール大学のホセ・デルガードGa naar eind〔註6〕教授と対談したと巻、ある人の脳の一部から他の人の脳の一部ヘコンビュータによワて感情を伝達するという話をきかされました。今では新しいコンピュータ利用範囲がひじょうに広がつているのですね。

 

彼がどんな意味で感情の伝達のことをいっているのかわかりませんので、その点については論評したくありません。

 

アポロ一七号をうちあげるためのコンピュータがトラフルをおこした時、科学者はコンピュータの憂うっ症のことを問題にしていました。それ以上の遅れをださないために、技術者たちはさながら精神科医のようにそれらのコンピュータを調整しなければならなかったそうです。われわれは今や、コンピュータの精神科医を必要と」ているおけですか。

 

コンピュータ・システムは大変複雑になってきていますから、何か予期できない作動があった場合にそれがどこから生じているのかを理解することが、しばしばむずかしいわけです。そこで、この点を擬人的な方法でいいあらわす傾向が生じてきているわけです。たとえば、今思い出すのは、何年か前に、コンピュータはひとみしりすることができるかどうかたずねられたことです。あまり本気になっていうのでなければ、人はコンピュータにおべっかをつかうことができる、ということもいえるで しょう。コンピュータのふるまいをよく知ワていれば、自分の行動をうまくコンピュータにあわせることもできるわけで、その場合には、コンピュータはこちらの望むことを特にひいぎしてやってくれるでしょう。

 

今後十年ぐらいのちに中国人もコンビューたの設

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計ができるようになると仮定してみましょう。そうなると、ある新しい科学が当然必要になってくるわけですね。つまリ、中国のコンピュ-タは中国人的な行動に反応するだろうからです。中国のコンピュ-タがアメリカのコンピュ-タやヨ-ロッパのコンビュ-タに話しかけることができるようになるでしょうか。そこで、中国のコンピュ-タと話ができるようにわれわれのコンビユ-タを調整するためには、東洋的行動様式に精通している行動科学者に診断をあおがなくてはならない、という ことになるわけですGa naar eind〔註7〕。

 

いやいや、科学小説に入りこむのはやめましょう。それはともかく、あなたのいわれることにも多少の真理があるかもしれません。コンビユ-タは人間と交信するように設計されるのですから、たとえば家具のように、特定の文化に適合したものになります。日本の家庭でみられる家具はアメリカの家庭でみられるものとはちがっています。それは日本人が異なった生活習慣をもち、家具はそれにあわせて設計されるからです。

 

ええ。ところが人間の感情の交信の仕方は、日本人とフランス人の間は論外としても、日本人とインドネシア人との間でさえまつたくちがっています。もし人間の感情や人間の行動がコンピュ-タに反映するとすれば、たとえば極東では、西洋と比べて違つた種類の交信の仕方が、コンピュ-タと人間との間で行なわれることになるのですね。

 

そうかもしれません。しかし私はこの問題をもっと一般性をもった形で論じたいと思います。コンビュ-タ・システムと、それを利用することで影響をうける人間社会との間には、かなり強い連結があります。コンピュ-タ・システムの特徴はそれをとりまく社会の特徴に影響を与えます。またその逆に、社会の特徴はコンピュ-タ・システムの進化に影響を与えます。コンピュ-タ・システムは静態的なものではない、ということをはっぎりさせておかなければなりません。新しいプログラムが書 かれ、古いプログラムは修整されます。それは、社会が時間的に進化していくのとちょうど同じように時間的に進化していくのです。この二つの進化は、お互いにひじょうに強く影響しあいます。このようないい方をすれば、社会現象がコンピュ-タ・システムの特徴にひじょうに

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密接にかかわりあっていること、またその逆がいえるということ、をわかっていただけるでしょう。つまり、コンビュータ・システムの最初の特徴が、それをとりまく社会の進化に対して、人間とその価値観との関係を含めて、ひじょうに強い影響を与えるかもしれないということです。

 

そうすると、ある悪の力がコンビユータのブロケラミングを支配し、それによってその悪しき信念にあわせて社会をブログラムするという危険もあるということになりませんか。個人をブログラムするために環境をプログラムするというスキナーの哲学が思い浮びます。

 

私にそれにありそうなことだと思いません。そのことについては特に心配していません。私がもっと懸念しているのは、善意の人々がおこりうる結果を理解していないためにしてしまうかもしれない事柄です。コンピュータが社会の運営にどのように利用されるかは、利用可能なコンビュータ・システムの性格にもよります。たとえばユーザーとは直接には交信しない型のコンビュータ・システムもありますし、ひじょうに簡単に個々入と交信できる型のコンビュータ・システムもあります。社会の 運営のある特定の局面においてどのような型のコンビュータ・システムが用いられるかによって、社会の動きも違った方向に進むことになります。たとえば統制力の集権化を一層すすめるとか、あるいはその逆とかです。このことは社会の動きに大きな影響を及ぼしうるのです。また、個人のブライバシーを守ることができるコンビユータもあれば、できないコンビュータもあるわけです。

 

地球が有限であり、この地球を管理する何らかの組織をわれわれが作らなければならない、という事実を認めたとしますと、コンビュータは近い将来人間の助けになるとお考えですか。

 

その点ではコンビュータがひじょうに有益でありうるということについて、私にはまったく疑念がありません。むしろそれ以上のこともいえると思います。もしコンビュータの助けがなければ、アメリカ社会のような高度な社会はそれ自身の複雑さの重みでつぶれてしまうかもしれないと、私は本気で心配しています。それは単なる計画の問題ではありません。運営の問題でもありません。というのは、計画できることは実際に行ないうるこ

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とに依存しているからです。地球を全体として管理することが問題であるならば.ただ計画のことだけを諭ずるのでなく、実行可能な解決を実施に移すことを問題にしなければなりません。その実行可能な解決のためにぱ、地球上のあらゆる部分の間での緊密な交信のもとでの, ひじょうに多くの共同作業を必要とします。したがって私は、コンピュータを徹底的に利用することなしにそれが実行可能であるとは考えられ玄せん。だからこそ私は、人間の間の通信を促進する手段についてお話ししようとしたのです。

 

しばらく地上にまいもどることにしましょう。あなたの事務所の外でいくつかの看板や広告に気がつきました。大学ではコンビユータの専門象を求めています。ランド研究所Ga naar eind〔註8〕でも同様です。イェール大学ではコンピュータ工学の博士号を出しています。そこで、ごく簡単に、アメリカの着者たちがコンピュータ科学に対してどのような反応を示しているか、お話し下さいませんか。あなたは, 問題にとりくむことができる世代を教育していくことができる、という希望をおもちですか。

学生たちの間で、コンピュータ科学とかコンピュータ工学とかよばれるものに対する興味がひじょうに急速に増大していることは、疑問の余地がありません。

 

男女両方ともですか。

 

私はコンピュータ科学というのは工学の一分野だと思っていますが、それは女の子たちが相当興味を示している工学の分野だと思います。

eind〔註1〕
対談"45〈エドワード・テラー〉参照。
eind〔註2〕
対談46〈ハーマン・カーソ〉参照。
eind〔註3〕
対談34〈ジェイ・フオレスター〉参照。
eind〔註4〕
対談12〈マーシャル・マクルーハン〉参照。
eind〔註5〕
ファーノ教授による下記の論説を参照。 ‘Computers in Human Society - For Good or ill?’, Technology Review, March 1970.
eind〔註6〕
対談38〈ホセ・デルガード〉参照。
eind〔註7〕
Norbert Wiener, The Human Use of Human Beings, Cybernetics and Society, 1959.邦訳『人間機械諭』池原止戈夫訳。みすず書房 (一九五四年) を参照。
eind〔註8〕
カリフォルニア州サノタモニカにあるツソク・タンク。

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