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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente) (1983)

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Titelpagina van Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)
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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)

(1983)–Georgi Arbatov, Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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1 アメリカの幻想

- ではいったい、なにが「正常な」状態なのか。A私としては、できれば明快な回答をしたい。つまり国際緊張の緩和、協力の推進、軍縮の進展などを基準にして、現状は常態からはずれたものだといいたいところだ。しかし、少なくとも「常態」の正確な意味を定義するまでは、そう断言することをためらわざるをえない。なにか自然の状態を取り上げ、たとえば体温が平熱だから体は健康であり、健康を脅かすものはないというような意味からすれば、緊張緩和のほうが正常な状態であり、冷戦はそ うではないとはっきりいえる。

しかし、「正常な」(ノーマル}を「通常の」(ユ-ジュァル)という意味に理解することもできる。つまり、その状態を維持するのになんら特別の努力を必要としないような、ごく普通の状態と考えることもできる。たとえば、コルクが水に浮かぶのはノ-マルなことである。これを沈めようとしたり、あるいは空間に持ち上げようとすれば、努力しなければならない。その努力をやめると、ュルクはまた「ノ-マルな」状態に戻る。

その意味では,残念ながら緊張緩和はまだ、国際関係の正常な状態にはなっていない。緊張緩和を維持するには格別の努力が必要だが、国際緊張を復活させるには、ただ手をこまねいてじっといるだ

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けで十分なのである。

- 言い換えれば、緊張緩和を維持するための努力が不十分だったために、いま問題が生じているとい5ことなのか。A いや、そうとは思えない。なるほど、一部の人が緊張緩和のために他の人より熱心に努力した、ということはある。しかし緊張緩和を阻んだのは、努力の不十分さだけではない。それを阻んだ本当の要因は、緊張緩和を危険な異端とみなす人たちが勢力を結集して強力になったからだ。特に七〇年代末と八〇年代初めのアメリカの外交政策の変更で、緊張緩和は打撃を受けたのだ。

アフガニスタン事件と「ソ達脅戚論」

- このくだりを読めば、アメリカの読者はかんかんに怒るだろう。なぜなら、現在のように事態が悪化した決定的な要因は、アフガニスタンだと信じ込んでいるのだから。A アフガ二スタソをめぐるわれわれの行動が西側の反発、非難の嵐を巻き起こすために利用されていることは、十分承知している。しかし、政治上の判断は、事実に基づいて行なうべきであって、感情に左右されてはならない。

アメリカ側の公式の言い分によると、現在の国際関係悪化の原因はアフガニスタン事件にあるということになるが、この言い分は通らない。ソ連はアメリカの新政策を冷戦に向かう大きな後退と受けとめているが、この政策の根幹をなす主な決定がアフガ一一スタン事件よりはるか以前に下されたものであるという事実一つをとっても、アメリカの主張はつじつまが合わない。

- それは、どういう決定を指しているのか。

A 今後一五年間、軍事予算を毎年増やしていこうという北大西洋条約機構(NATO)の決定(一九七

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八年五月、ワシントソ)、軍事計画拡大と史上最高の軍事費支出を目指す「五力年計画」についてのアメリカ大統領の決定(一九七九年一一月)、さらに、アメリカ製中距離ミサイルの生産とヨーロッパ配備についてのNATOの危険極まりない決定(一九七九年一二月、ブリュッセル)などがある。

また、やはりアフガニスタン事件以前に、アメリカは、事実上、軍備制限交渉を凍結した。第二次戦略兵器制限条約(SALTII)の批准は、一九七九年九~一一月の段階で、すでに相当疑問視されていた。さらにまた、明らかに反ソ連の狙いをもって中国との間に急接近が実現した。

一九七九年の秋には、アメリカは航空機、核兵器を載せた大量の艦船をペルシャ湾に送った。これが単にテヘランのアメリカ人人質を解放するためのものであり、アメリカの外交政策ないし軍姿勢の全般的変化を示すものでないとは、われわれには信じがたかった。したがって、ソ連では一九七九年一二月半ばにすでに、アメリカが急激な政策転換を行ないつつあるとみていた。

- ということは、アメリカの政策がアフガニスタンに対するソ連の行動に影響を与えたということか。

A それが重要な要因になった。

- もし緊張緩和が正常に発展し、あなたがいま指摘したような困難が起きなければ、ソ連はアフガニスタンに軍隊を送らなかった、ということなのか。

A たぶん、送らなかっただろうと思う。しかし、ここはどうか誤解のないようにしてほしい。軍隊を派遣したのは、アメリカや西側の不作法な振る舞いを「罰する」ためではなかった、ということだ。むしろ、アメリカとNATOの作り出した脅威や情勢をわれわれが改めて評価し直したことと関係があった。

ブレジネフ書記長がソ連共産党機関紙プラウダとのインタビューでも触れているように、アフガニ

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スタンに限られた軍隊派遣の決定は、決して容易なことではなかった(プラウダ、一九八〇年一月一三日)。アフガニスタソ政府は,一九七九年末よりはるか以前から、くり返しソ連の支援を要請していたが、ソ連は差し控えていた。しかし一九七九年末には、世界全体、特にあの地域の国際緊張が急速に激化し、その脈絡のなかでアフガニスタン情勢を見直さざるをえなくなっていた。その脈絡でみれば、アフガニスタンの革命政権への脅威とソ連の安全保障への脅威は、緊張緩和の条件下におけるよ り、はるかに重大な意味を持っていたのだ。

- アフガニスタン事件は、アメリカやその同盟国を本当に驚かせた。ソ連の意図するところがわからなくなったからである。カーター大統領は、ソ連の意図が信用できなくなったと強調した(一九八〇年二月一九日、ワシγトンでのアメリカ在郷軍人会メンバーに対する演説)。したがって、あなたがさっき触れたアメリカの政策変更なるものは、ソ連の脅威増大と解釈され,のちにアフガ一二スタン情勢によって確認された事態が引き起こしたものかもしれない。

A 率直にいって、「ソ連の脅威」を口にするのが洗脳された普通の人ではなく、責任ある政治家や専門家である場合,この人たちは軍事的、経済的、政治的現実も力の均衡の現状も十分知り尽くしているはずだから、ソ連とその軍事力や意図よりむしろ、アメリカとその政策、軍事姿勢、世界におけるアメリカの役割といったものを念頭においているように思われる。

一方であたかもソ連がアメリカを挑発して行動させたように見せかけながら、アメリカの外交、軍事政策で途方もない要求をするほうが、いたって好都合なのだ。われわれはものごとを、そんなふうには見ていない。

われわれの見るところでは、だれもアメリカの外交政策を硬化させるような挑発はしなかった。む

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しろアメリカは、しばらくの問、組織的に、自分で自分の熱を高めた揚句、ソ連や外部世界一般との関係について現在のような考え方をするようになったのだ。

- しかし過去何年かにわたり、ソ連が著しくその軍事力を強化してきたことも否めないが。

A その通り、われわれの力は確かに強まった。自分の国の防衛を大切にするのはきわめて当然のことだ。そして「ソ連の軍事的脅威」を大声で叫んでいる人たちの多くは、ソ連の努力で戦力が対等になったこと、かつては存在しなかった戦力のおおまかな均等がほぼ実現したということ、しかもそれはソ連が優位に立ったことを意味しないことを知っているはずである。

- しかしNATOは、ソ連の戦力増強が妥当な防衛の要件を上回っているとくり返し指摘している。はり

A 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」〔マタイによる福音書第七章第三節〕

私はしばしば疑問に思うのだが、もしミシガン州の北側に約百万のワルシャワ条約軍部隊と約千基の核ミサイル発射台が配置され、一方、テキサス州が、メキシコではなく、核兵器で武装し、救世主のような要求を掲げ、アメリカ南部の相当部分に領土権を主張する一〇億の民の国と境を接していたら、アメリカの政治家や将軍たちはその妥当な防衛力をどのように判断するだろうか。

米強硬路線の本当の理由

- あなたのいうように、もしソ連の脅威がないとすれば、アメリカが最近、強硬路線をとるようになった本当の理由はなんだと思うか。

A二つの理由があると思う。

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人類の運命は一つ

- デタント以外に道はない



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「ソ連外交の設計者」ゲオルギー・アルバトフ




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安保研ての場演


好むと好まざるとにかかわらず、われわれは、この地球上でともに生活しなければならない。生きるのも減びるのも一緒なのだ。

(「日本語版によせて」より)

アルバトフ

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左からブルバトフ、ブレジネフ書記長、ニクソン大統領(1973年、ホワイトハウスで)。




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東京てのバルメ委員会て発言するアルバトフ博士。後方は、坂本義和東大教授。


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一つは、アメリカの権力エリートのなかのムードと力関係を変えさせたもの、いま一つは、そうした変化を実際上の政策に反映させるような政治的雰囲気をアメリカに作り出したものである。

エリートについていえば、この変化の主な原因は、世界情勢の新しい現実への適応が困難だったことと関係していると思う。この新しい現実がアメリカにとってさまざまな問題を生み出したことは確かで、アメリカ外交政策の非常に大がかりな再構築を必要とした。この現実は、戦後一時代を画したアメリカの政治的行動様式を貫く指針、概念、規範との決別をアメリカに求めるものであった。

第二次大戦直後、戦争による惨禍や犠牲を免れたアメリカは、最も富める、最も強力な国家として立ち現われ、まれにみる時代を経験した。

当時そうした状況は、世界が「アメリカの世紀」(それが何を意味するかはともかくとして)へ向かって突進しているとの印象を生み、アメリカはほとんど何でも、だれでも思いのままにできるし、思い通りにならないものはその圧倒する力で抑圧し、あるいは破壊できる、と人に思わせた。あの歴史的状況は、特殊で一時的なものではあったが、多くのアメリカ人は、それがごく自然な姿で、いつまでも続くものと思うようになった。

- アメリカ人の多くは、もうそうした幻想を捨てたとは思わないか。A 捨てた人もいるが、捨てていない人もいる。そうした幻想と決別することはきわめて難しい。一九八〇年の大統領選挙は、この点を非常にはっきり示したと思う。あの選挙は「アメリカの夢」に対する郷愁がきわめて強いことを裏づけた。

権力エリート間のムードの変化に話題を戻すと、もう一つの点、つまり、国際緊張の経和がどうもアメリカの政治的意思を弱めるのではないか、という懸念がエリートにあったことを強調したい。私は、一九七二年の最初の米ソ首脳会談が終わって、アメリカ大統領がワシントンに帰ったときのエピ

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ソードを思い起こす。このときアメリカの政策決定者たちの胸中を占めていたものは何だったろうか。

キッシンジャー〔六九~七三年大統領補佐官、七三~七七年国務長官〕の回顧録によれば、それは喜びでも満足でもなく、今後は軍事上の計画に国民の支持を動員することがさらに難しくなるのではないか、またそのほか多くの従来の政策を追求することができなくなるのではないか、という不安と懸念だったのである(ヘンリー・キッシンジャー『The White House Years ボストン、リトル・プラウン、一九七九年、一二五六~五七べージ)。

一般的にいえば、アメリカの政策決定者たちはしぶしぶと、恐る恐る、しかも数々の条件をつけたうえで、ようやく緊張緩和を受け入れたことがわかった。緊張緩和を受け入れざるをえなかったのは、六〇年代末期から七〇年代初めまでに、従来の政策が無意味で危険なことがさらけ出されていたからである。

しかし、こうした古い政策が完全に取り払われたわけではなく、やがてまた息を吹き返し、次第に勢いをつけ、緊張緩和にブレーキをかけ、多かれ少なかれ冷戦復活への傾斜を強め、軍拡競争に拍車をかけ、交渉を挫折させた。

- アメリカの権力エリートが、この数年間のうちに緊張緩和に失望して冷戦に後戻りすることを決めた、ということなのか。

A それは問題を単純化しすぎた見方だろう。そもそも、アメリカの権力エリートが緊張緩和に大きな期待を持っていたとは思えない。

われわれマルクス主義者のみるところでは、軍縮や武力不行使は言うまでもなく、ソ連との関係改善や協力増進を意味する緊張緩和は、アメリカの権力エリートの政策ないし政治的見解として典型的なものでもなければ習性的なものでもない。しかしこのエリートの内部にも、色分けがあること、つ

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まり問題によって違った見方をする異なるグループのあることは、われわれも知っている。

そして最も大切なことは、客観的な事態の推移、つまり客観的な現実によって、時には確固とした意見を持った人たちの態度さえも変わらざるをえなくなることがある、という点である。しかし、だからといって、そうした変化が容易に起こるとか、また、いったん起きた変化が逆転しないというわけではない。支配階級のなかでも最も影響力の大きい人びとの古い習性的な考え方は、いわば第二の本性ともいうペきもので、わずかなきっかけでも、またもとのもくあみに返ってしまいがちである。

最も保守的で、軍事最優先の無責任な政策を推進していた最有力グループについていえば、彼らは緊張緩和が実現する前から緊張緩和に反対し、懸命にこれを妨げようとした。また緊張緩和が実現したとなると、このグループの人たちは、これをひっくり返すために労を惜しまなかった。

アメリカは幻想を捨てていない

- さきほど適応の難しさ、ということを指摘されたが、アメリカにとって適応が最も困難なことがわかったのは何か。

A アメリカが適応するのに一番困難だったのは、ソ連に対するアメリカの軍事優位が失われ、両国の間に力の対等性が確立したことだと思う。また軍事力を使用できる範囲が狭くなったこと、つまり、アメリカのような軍事大国でさえ、たとえ相手がイランやニカラグアのような弱小国の場合でも、世界で好き勝手なことができなくなった、という事実も、アメリカにとっては受け入れがたかったと思う。さらにまた、同盟国が独自性を強めていることも指摘できる。

このほか、アメリカ経済がいまでは他の国々に依存しているという事実もある。この点が明白になると、「相互依存」が将来利益をもたらすとする議論は、これを耐えがたい「弱点」だとする叫びにあ

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っさりかき消されてしまった。

適応に伴う苦痛といえば、新しい冷戦に向けて事態を進めるのに一役買っている幻想もある。たとえば、アメリカは、かつての世界に冠たる特殊な地位を回復できるといった幻想がそれだ。

- 就任式の直後から、レ-ガン大統領は、アメリカ人は「思い切って大胆な夢を見る」権利があるのだと国民を説得しはじめた。

A その主張はなるほど、そうかもしれないが、ソ連が自ら抱えている諸問題のために著しく弱体化し、その結果、アメリカがソ連の政策に強い影響力を及ぼす力を持てるようになるなどという考えは、こうした夢に含めるべきではない。この問題についてはもう少しあとで再び触れるつもりだが、いまは、そうした予測が過去六十数年くり返されたが.外れるのが落ちだったという事実を指摘するにとどあておきたい。

私はまた、アメリカの政策に変化をもたらすのに一役買った重要なアメリカ国内の要因についても述べたい。

- 選挙戦のことか。

A 一九八〇年の大統頭選挙戦についても議論できるが、私が考えている要因というのはもっと長期的な性格のものである。つまり、アメリカの「統治が手に負えなくなった」という、アメリカのエスタブリッシュメントの間に高まっている不満の声のことだ。たとえば、国民の総意の不在、政治勢力の分裂、政治に対する「過重な」社会の要求、民主主義の「行き過ぎ」といったことがこの不満の原因になっている。かつて冷戦時代のアメリカは、もっと「まとまりがあり」「規律の行き届いた」社会で あり、したがって統治が容易であったことはいまも忘れられていない。この「統治の困難さ」に絶望的になっている人たちの多くは、国際清勢がいままり緊張すれば、アメリカ国民がいま少し従順にな

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ると考えているのではないか。

こうした要因がいっしょになって、アメリカの権力エリ-トの相当部分の間で、一つのコンセンサスができ上がっているように思う。つまり国内の不安定を軽減するばかりでなく、世界におけるアメリカの力と影響力を高める道は、もっと強硬な政策に転換し、アメリカの軍事力を強化し、もっと自由にその力を使用する準備を整えておくことだという考え方がそれである。

さらにまた、アメリカ経済の力をもっと直接的に、もっと容赦なく発揮し、時には抑圧もし、時には脅迫もすべきだというのだ。もっとも、これは状況をごくおおまかになぞっただけであって、実情はもっと複雑である。

- その言い方は、限定条件をつけたようにきこえるが。

A私としてはあまり事態を単純化したくはないし、ありもしない枠組みや機構があるかのような言い方もしたくない。実際のところ、主な限定条件を二つ指摘できる。

一つは、アメリカの権力エリ-トの間のコンセンサス作りと政策決定のブロセスでは、大統領のあまり確固としたコンセンサスを必ずしも必要としないようになっていることである。きちっとまとまり、自信にあふれたェリート集団より、よりどころを失ったばらばらのエリート集団を率いるほうが、ある意味では楽かもしれない。

もうーつの点は、アメリカの政治制度の最上層部で具体的な形を取りはじめたかにみえるコンセンサスでありながら、この新しい外交政策には、依然深刻な疑問が残っていると思われることである。このように疑問視されているのは、この政策がうまくいかないのではないか、アメリカ自身にとっても危険ではないか、と懸念している人が多いからである。

- それでは、アメリカの政治的雰囲気が変化したのはなぜか。

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A 緊張緩和に伝統的に反対の立場をとってきた人たちが、意識的、継続的に努力を続けてきたことをまず指摘したい。

アメリカの一般世諭は、緊張緩和を強く支持していた。しかし同時に、過去一〇年間の一部の外交政策の展開については、ぎわめて強い不満も持っていた。インドシナやイランでの失敗は、明らかにこの不満の一番大きな理由だった。強硬派は、「ソ連の脅威」とか「アメリカをこづき回すのをもう許さない」とか式の宣伝で、こうした不満を自分たちの望む方向に向けることにかなり成功した。

盲目的排外主義の危険性

- 愛国主義的機運が突然強くなったのは、もしかしたら、イランの人質事件の結果かもしれない。

A テヘランのアメリカ大使館とアメリカ人外交官への仕打ちを正当化しようとしているとは、どうか考えないでほしいが、あの事件に対するアメリカ人の反応は、愛国主義というよりはむしろ、盲目的な排外主義ないし好戦的強硬論のようにみえた。

- ロシア人は自分の国を愛さないのか。

A いや、そんなことはない。われわれは他国の愛国主義も尊重する,国が危機的状況に直面したときに決定的な役割を果たすのは、強力な道義性だとわれわれは考えている。しかし本当の愛国主義というものはまた、自分の国に対して理性的な態度をとることであり、自分の国が間違いを犯したときは、批判的な態度をとれるということである。

ちなみにこれはレーニンの愛国主義に対する理解である。国家主義的な熱情はこれまでとかく国を迷わせてぎたが、愛国主義はこれとは区別しなければならない。一九世紀の辞書編集者サミユエル・

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ジョンソンが愛国主義のことを「悪党の最後の逃げ口上」ときめつけたが、その意味するところは、この国家主義的熱情のことだった。

- アメリカの政策変更について、まだほかに理由があるだろうか。

A 緊張緩和政策は、アメリカでは一度も成功する機会を与えられなかったし、いまワシントンの強硬派の間では、対外関係でアメリカの意志と決断力を衰えさせた元凶として、緊張緩和をあざ笑うのがはやりになっている。しかし、アメリカの意志や決断力が実際に欠けていたとすれば、それは緊張緩和や軍縮、信頼醸成に対するワシソトンの態度にこそ欠けていたのだ。

- そして、一九八〇年の火統領選挙がやってきた。アメリカで大銃領選挙のお祭り騒ぎが終わるまで全世界が活動を止めて待っていなければならないのは「実に嘆かわしい限り」とロンドン国際戦略研究所の副所長、ジョナサン・アルフォード大佐のような著名な分析家も嘆き、「非常に嘆かわしいだけでなく、危険さえはらんでいる」と言っていた。

A 確かに、アメリカの選挙の時期は、いい政策を打ち出すには悪い時期で、悪い政策を打ち出すにはいい時期である。これはある程度理解できる。

立派な大統領になるか、お粗末な大統領になるかはともかく、その前にまず大統領にならねばならない。そして、大統領になるためには、候補者は通常、どんなこともためらわない、しかし、時々不思議に思うことだが、ほとんど毎度のように、候補者が軍備競争を助長し反ソ惑情をあおり、まぎれもない陰謀に加担するようにみえるのはなぜだろうか。アメリカの著名な科学者であるジェ戸ーム・ウィーズナーは、前回の大統領選挙戦の末期に、ニューヨーク・タイムズの記事のなかで、次のよう に述べていた。

「大統領選挙戦のたびごとにわれわれは、差し迫ったソ連の戦略的優位をめぐるヒステリフクで恐ろ

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しげな見通しと、アメリカの核戦力の大幅増強を訴える呼びかけをしこたま聞かされる」(ニューヨーク。タイムズ、一九八〇年一〇月一〇日)

ウィーズナーは、この危険な伝統の歴史を一九四八年までさかのぼって跡づけている。以来これまで、この点で非常に悪質だった選挙が何回もあった。しかし一九八〇年の選挙に、国際的な大災厄だった。アメリカが直面している本当の問題についてはほとんどなんの議論もされなかった。国益を検討し直し、これを推進するための合理的手段を編み出す試みがまったくなかった。その代わりに世界が聞いたのは、耳をつんざくばかりの武力による威嚇の声だった。

軍事支出の増加を要求する激しい競争や、きわめて危険な新しい核戦略ドクトリンの発表だった。そのあとでやってきたのがイランに対する奇襲部隊の攻撃。アメリカは作られた危機のさなかにあった。こうした事態になったのは、カーター大統領が、この危機こそ選挙での敗北を免れる唯一の手段とみなしたからだ、と考えるアメリカ国民もいた。

- ほかにどんな選挙戦がありえただろうか。

A 理想的には、私自身そう好都合にはいかないと思うが、選挙戦は政治教育の手段としての役割を果たすべきであり、政府の政策の修正を促す道具となるべきだと思う。ただ、政治的ブロセスの仕組みは、こうした民主的な目的のたあに機能しなかった。一九八〇年にはアメリカの政治的プロセスが人質にとられた、というエドワード・ケネディ上院議員の指摘は正しかったと思う。


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