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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente) (1983)

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Titelpagina van Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)
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Soren no tachiba. Detanto no hokani michi wa nai (The Sovjet viewpoint. No alternative to detente)

(1983)–Georgi Arbatov, Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

Vorige Volgende

3 米歴代大統領を評価する

- あなたの分析を要約すると、アメリカが適応しようと努めてきた状況として、アメリカ

の軍事優位の喪失、第三世界の新しい役割、西西関係の変化などが挙げられるが。

A もう一つの現象を付け加えたい。それはアメリカ国内で起きた変化だ。一九四〇年代初めから六〇年代半ばにかけて、外交政策はアメリカの国政のなかで文句なく最優先事項となっていた。その時期は、アメリカの世界的役割の質的な拡大とともに始まったのだから、ある意味でそれは当然のことだった。

ニユーディールと第二次世界大戦を経た後、アメリカの国家政策を取り巻く全体状況を大きく左右したのは、帝国を建設し、維持するという問題だった。こうした国外進出は一時的に内政面での鎮静効果があったが、それも長くは続かず、冷戦十字軍はアメリカを安定させるのではなく、ある段階から国内に大きな危機を触発することになった。

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内政問題に緊急で真剣な注意を向けることが必要となり、財源を配分し直し、国際的介入を控え、より妥当な外交政策をとることが不可欠となった。六〇年代終わりから七〇年代初めにかけての国内危機は、外交政策で新しい考え方が生まれるうえで重要な背景となった。具体的な政策の処方箋という意味では本当の合意は生まれなかったが、政策を変える必要がある、という全体的な考え方の流れが出てきたことは疑う余地がなかった。

だれが大統領になろうとも

- そしてニクソンがその変化に手を着けた。だが新しい現実への適応は避けられなかったから、一九六九年にだれがホワイトハウスの主になろうと、共和党員でも民主党員でも、実際は問題ではなかったということか。

A そう、だれが大統領になっても、いろいろなやり方で適応を試みざるをえなかっただろう。

民主党には、たとえばジョン・ケネス・ガルブレイスのように、対ソ関係への取り組みでは共和党の方が高い評価を得ていると考えている人もあるが、私はアメリカの大統領が共和党員であっても、民主党員であっても、政策面では大差はないという考え方に同意する。時には共和、民主両党の間よりも、両党それぞれの内部で重要な政治的対立があるように思う。

政治勢力の全体的な相関関係が非常に重要であって、あの当時にこの相関関係が、緊張緩和に有利だった。もちろん、だからといって、政府首脳の顔触れや、特に大統領の個性、つまり政見、価値観、道徳的資質、心理、気質などを考慮に入れる必要がないということではない。こういうものはどれをとっても、政党間の伝統的な違いがあいまいになっている今日ではなおさら、大統領の党籍よりも重要になることが多いかもしれない。

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- しかしマルクス主義者が個性に特別の重要性を認めるのか。

A もちろんだ。マルクス主義によると、歴史的出来事の流れは基本的に、また結局は経済、社会、文化などの客観的な要因や条件によって決定される。しかし国家の最高レベルでの日常の政策決定に際して、客観的に決められた広い枠組みのなかであれこれの政策を選ぶ場合、政策決定者の個性は重要で、時には決定的な役割を演ずることもある。それが戦争か平和かという達いをもたらすような場合も考えられる。

- 反共主義を自分の全政治経歴の土台としたリチャード・ニクソンが、緊張緩和政策を推

進することになったことに驚いたか。

A 私やモスクワの同僚が当時、実際に予想していたよりも先見の明があったようにみせかけるつもりはないが、そうなることはある程度まで予期していたといってよい。実は、われわれが一九六八年、この研究所でちょうど仕事を始めたころ、ニクソンが大統領選挙に出馬した。研究所のスタッフが初めて論文や分析文書を作成したのを思いだす。ここの研究者の間では、だれがワシントンで権力を握ろうと、ソ米関係に何か重要な変化がすぐにも起きそうだという点で、はっきり意見が一致していたし 、政府の専門家たちも同じ見方をしていた。

- どうしてそういう結論に達したのか。

A われわれは、すでに触れた主要な客観的要因、つまリアメリカを取り巻く国際情勢、国内情勢双方の変化を分析した。比較的流動的な情勢としては、一九六七年から六八年にかけての共和党の政治的動きの進み具合が示唆に富んでいた。

共和党は六〇年代初め、急激に右に進路を変えて、リンドン・ジョンソンのベトナム戦争拡大政策に舞台装置と圧力テコを提供した政党だった。しかしベトナム戦争に勝てないことがはっきりしたと

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き、共和党の大勢は、ゴールドウォーター運動を継承したニクソンも含めて、代わりの政策を模索しはじめた。国家政策について彼らは、危機脱出の道が東西関係の全般的枠組みを修正すること、その枠組みについてソ連と交渉を試みることにあるということに気づきはじめた。共和党の考え方の転換は、重要な変化を歓迎するという点で、アメリカのバワーエリートの意見がまとまりつつあることを示すものだった。党派政治という観点から見れば、共和党は「平和の党」としてしか政権を奪回 できないことをよく理解していた。

歴史の逆説、ニクソンの役割

ーそれにしても、緊張緩和の開始やアメリカ大統領の初の訪ソ、最初のSALT合意など

がニクソソの名前と結びついているのは奇妙なことだ。

A 特定の歴史的出来事に、ある人物がどれほど貢献したかを正確に推し量ることは、歴史家にとって最も難しい仕事の一つだ。緊張緩和が進みはじめたとき、アメリカ政府を率いる役割にニクソンとキッシンジャーに委ねられた。われわれとしてはこの二人を正当に評価する。

もちろん、ジョー・マッカーシーの登場以前にマッカーシムを実行したアカ狩り、魔女狩りのリチャード・ニクソソその人が、ソ米関係を対決から交渉へと転換させる仕事に着手したのは、いかにも逆説的だという見方がアメリカには多い。ある意味では、ニクソンの評判が緊張緩和への転換を容易にしたことは間違いない。

まともな人間なら、アルジヤー・ヒス事件〔米国務省職員ヒスが下院非米活動委員会でスパイ容疑で告発され、偽証罪で投獄された事件。下院議員だったニクソソは同委でヒス追及に活躍した〕をあおウ立て、一九五九年にモスクワで台所論争をやらかしたあのディック・ニクソソが、まさかアメリカを裏切るなどとは

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夢にも思わないからだ。ヒューバート・ハンフリー〔元副大統領〕だったら、たとえ一九六八年に大統領に選ばれていても、ニクソンほどうまく保守派を鎮めることはできなかったかもしれない。しかしこのことは、「新しいニクソン」が登場したということではない。われわれはそうした見方をとらなかった。

ニクソンは同じだった。変わったのは周囲の状況だったのだ。ニクソンはいつも、何よりもまず政治家としての成功を求めてきたのだと思う。当選し、再選を果たし、二〇世紀の歴史に輝やかしい位置を占めようということだ。

一九四〇年代終わりから五〇年代にかけてニクソンは、狂信的な反共主義、反ソ主義こそが成功への道だと思った。しかし六〇年代終わりから七〇年代初めになると、ホワイトハウスを目指すには別の戦術が必要だということがわかるだけ現実主義者になっていた。今度の戦術は「対決よりも交渉」「平和の世代」であり、ソ連やほかの社会主義国との緊張緩和だった。

- ニクソンはギアを入れ換える必要があるということがわかるだけの賢明さを備えていた。

ニクソンは、国際政治のチェニス盤上の大きな変化に、後継大統領よりもうまく対処できたといえるだろうか。

A たとえニクソンが国内の政治状況によって、緊張緩和の方向に強力に押しやられただけだったとしても、結果から判断すれば、はっきりそう言える。しかしその当時でもまだ適応の過程は、アメリカの力への新たな制約をすんなり受け入れるまでには程遠かった。潮流に抵抗したり、二枚舌を使ったり、時間稼ぎをしたりすることがかなり多かった。

ニクソンはベトナム戦争を終わらせるという約束で権力の座に就いたが、戦争をさらに五年も長引かせ、カンボジア侵攻によって拡大さえした。ニクソンに約束を守らせるには、ベトナム人、カンボ

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ジア人、アメリカ人多数の生命と、アメリカ社会の大変な混乱が必要だった。全般的に言って、第三世界のほとんどの地域で、ニクソンの政策は相変わらずの基本的パターンを変えていなかった。ラテソアメリカ、特にチリが明らかな例だ。

- イランもその例だ。

A もちろんだ。イラン内政へのアメリカの積極的な介入は早くも一九五三年に始まり、CIAがテヘランのモハマド・モサデク首相の立憲政府を倒すのを助けた。しかし、膨大な兵器売却などの手段を使って、イランを中束におけるアメリカ支配力の主要拠点にすることに着手したのは、まさにニクソン=キッシンジャー時代のことだった。

そうすることでアメリカは、この地域でアメリカがよって立つ足場の下に、遅かれ早かれ爆発することになる時限爆弾を文字通り埋め込んでいたのだ。イラン革命は、イランや中東全域でアメリカが長期にわたってこのようなやり方でカの乱用を続けてきたことによる避けられない結果だった。あきれたことには、イランでの冷戦政策の敗北が、破綻したこの冷戦政策を復活させる口実に使われている。

七〇年代初めに話を戻すと、アメリカの外交政策には冷戦の惰性がまだ多く見られた、しかし世界情勢についてのアメリカ側の受けとめ方には重要な変化が生まれつつあり、それが実際の政策に一歩一歩具体化していった。

- そしてベトナムはそうした変化をもたらすうえで、決定的な役割を果たしたわけだったのか。

A アメリカがペトナムで失敗したことは、非常に重大な役割を果たした。しかしアメリカ外交の変化の過程はもっと複雑で、長期にわたるものだったと思う。アメリカが最高無比の地位を跨った時代

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が終わり、新しい現実と妥協しなければならなくなったことを示す新しい世界情勢の兆候は、べトナムの大失敗よりはるか以前から数多くあった。

たとえば、一九六二年のキューバ・ミサイル危機を取り上げてみよう。当時、ソ連は戦略兵力でアメリカと同等ではなかったが、あの危機のおかげで、アメリカが自分の条件を一方的に押し付けたり、やりたい放題のことをしたりできないことがはっきりと示された。ヨーロッパ情勢の進み具合からも、アメリカは以前よりも自制と柔軟さを求められるようになった。

アメリカの古い政策があれほど多くの伝統や偏見、それにこれが最も重要だが、アメリカが現実を直視することをいつも妨げてきた強力な利益グループに縛られていなかったなら、政策の再検討はべトナム戦争以前にありえたし、その結果、戦争そのものも避けられたはずだ。だが残念ながら、国民と政策決定者が幾つかの真実を納得するには、ベトナム戦争の悲劇が必要だったのだ。

最も印象深いルーズベルト

- ソ連から見て、過去半世紀で一番印象深いアメリカの大統領はだれだと思うか。

A 間違いなく、フランクリン・D・ルーズベルトだ。

- ソ連を外交上承認し、第二次大戦中、反ファシスト連合で同盟国となったからか。

A それは当然、非常に重要な理由だ。どんな民族でも個人の場合と同じように、ほかの民族から受ける扱いによってその民族を判断するものだ。この点が特にルーズペルトの場合にあではまるように思われるのは、ソ連の歴史で最も苦しい試練の時期に、ソ連の国家と人民にどのような態度で接したかという問題だからである。

そうはいっても、ルーズベルトが過去数十年の間で最も卓越した大統領だったというわれわれの評

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価は、ルーズペルトの在任中に最高潮に達したソ米関係に及ばした影響という点からだけで説明できるもので肱ない。アメリカ史のこの時期について、わが国で書かれたものは、ルーズベルト個人についての何冊かの本を含め数多くある。

ソ速国民に、.ルーズペルトの生涯やその言動をかなりよく知っている者が多い。ルーズベルトはまた、大恐慌にともなう国民の苦しみを著しく軽減した昌ユーディール政策でも評価されていると思う。それに第二次大戦中、全体として一貫していた反フ7シスト政策でも非常に尊敬されている。

- しかしルーズベルトがもう少し長生きしたら、その政権下で冷戦が始まっていただろう

し,ルーズベルトはソ連で違った見方をされたかもしれない。ウィンストァ・チャーチルに

対するソ連の態度は事実、一九四五年以後に変化した。

A チャーチルに対する見方は、第二次大戦中からルーズベルトとは違っていた。彼には長い反ソの経歴があった。

ルーズベルトの場合、ソ連では一貫してもっとずっと好ましいイメージを持っていた。だからルーズベルトが生き長らえていた場合、状況が果たして実際、歴史通りに進展したかどうか、私にはまったくわからない。われわれの共通の敵が粉砕されたvデーの後、両国関係が変わる運命にあったことは疑いない。ソ米間に、戦後世界の構成についての意見の不一致や.ファシズムの崩壊で鼓舞された革命的な変化の過程への態度の相違があったことを考えると、困鮭や矛盾、緊張が生じることは避けられ なかった。しかしそれでも、冷戦は避けることができたと思う。冷戦回避に寄与できる西側指導者がいたとしたら、それはルーズベルトだった。しかしこれは決して証明できない見方だ。歴史は仮定法を認めてくれない。

- 一九八二年二月のルーズベルト生誕百年記念行事の模様をみても、いまだにアメリカで

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は議諭の分かれる人物のようだ。

A その通りだ。あの行事に臨むアメリカ政府の公式態度は少々おかしかった。レーガン政権は、ルーズベルトの写真を世界中のアメリカ大使館内に掲げるという控え目な提案さえ退けた。これはルーズベルトの残したものを国民に思い出させたくないように見えるのだが、一九八二年のアメリカ政府のこうした態度を、たとえばセオドア・ルーズベルトあるいはウッドロー・ウィルソンの記念日の豪華な祝賀行事と比べてみれば、確かにランクリン・D・ルーズペルトは、今日のアメリカ政府の基準から すれば議論の分かれる人物のように見えてくる。

- しかし、レーガン大統領は演説のなかで時々ルーズペルトの名前を持ち出している。

A そうはいっても、大体は非常に反ルーズベルト的な脈絡のなかでだ。またレーガン大統領はルーズペルトに四回投票したが、そのつどルーズペルトに政策を変えてほしいと思っていた。と言っている。

- そうした態度は、思想的理由によるものと思うか。

A もちろんだ。一九八〇年にワシントンで幅をきかせるようになった類の政治や思想は、アルフ〔アレフレッド)・ランドン〔米政治家。カソザス州知事。二ューディールに反対、一九三六年の大統領選で共和党侯補としてルーズペルトに桃戦したが、大敗した〕のキャンペーンや自由連盟〔一九三四年設立。ニューディール反対の企業、民主党保守派の団体〕にまでさかのぼる反ニューディールの伝統に根ざしている。

アメリカの右翼は過去五〇年間、自分たちが「ルーズペルト革命」とみなしたニューディールへの怨念に取りつかれ、その遺産を消し去ろうと努力してきた。右翼がその遺産を減らしたのは確かだが、右翼にレーガン政権の誕生で、これを完全に取り除いてしまう絶好の機会が初めて訪れた、と見ている。

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- ハリー・トルーマンはどう見るか。

A ソ連では、戦後アメリカの大統領のなかで最も悪いイメージを持たれている人物の一人だと思う。アメリカの政策がトルーマンの下で、急激に逆転したことを考えれば、これはもっともだ。

- ジミー・カーターは、ホワイトハウスの机に「私が仕事の全責任をとる」というトルーマンの座右の銘を掲げていた。アメリカ人のなかには、トルーマンを最も偉大な人物の一人に数える人たちもいるが。

A 一九六九年に初めてアメリカを訪れたとき、同じ印象を受けた。当時、多少不思議に思ったものだ。初め私「ハリー、やつらをやっつけろ」というスローガンがアメリカ人の間で人気があるのは、例のアメリカ人の傲慢さをよく表現しているからだと思いがちだった。

だがその後、トルーマンに対するこうした態度は、戦後初期のあの特異な時期へのアメリカ人の郷愁からきているのかもしれないと考えるようになった。あの当時はアメリカ人にとって、何事も単純明快で、永続性があり、手に入りそうに見えた。そんな状況は一時的で例外的な周囲の事情のせいだということに気づいていたのは、ごく少数だった。

ケネディとアイゼンハワー

- 過去五〇年間で、ソ連で二番目に人気のあるアメリカの大統領はだれか。

A ジョン・F・ケネディだろう。

- コチノス湾侵攻やミサイル危機がちったのにか。

A そうだ。それに「ミサイル・ギャップ」といういかさまの口実の下に、気違いじみた新たな軍拡競争まで始まったが、それでもやはりケネディだ。確かにそうしたいろいろな大失態は演じたが、ケ

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ネディは、ソ米関係を変えなければならないし、冷戦は自然の状態ではないということがわかっていた政治家だった。だからこそ、あの注目すべぎアメリカソ大学での演説が生まれたのだ。ケネディはこの演説で、長年打ち出されたことのない、世界政治と対ソ関係に対する新しい取り組み方を提示した。それは本質的に、われわれがほぼ一〇年後に緊張緩和と呼ぶようになった取り組み方だった。

この歴史的な演説に続いて、一九六三年には軍備管理に向かう最初の重要な一歩である部分核実験停止条約が調印された。ここでまた仮定の状況を語ることになるが、ソ連には、ケネディが暗殺されたことで、ソ米関係の重要な積極的転換が妨げられたと確信している者が多い。すでに触れたように、これが両国関係で失われた唯一の機会というわけではない。

今でも私は、アイゼソハワーの下で、もっとはるかに多くのことが達成できたはずだと信じている。アイゼソハワー大統領が少なくともその外交政策について正当な評価を受けているだろうかと、時に考え込むことがある。もちろんアイゼンハワーは任期の大半、反共十字軍戦士ナンバーワンで偉大な道徳説教師、「瀬戸際政策」の偉大な権威であるジョン・フォスター・ダレスの邪悪な影の下にあった。国際情勢改善の努力が失敗した責任の一部は、時宜を得ないU2の冒険の責任を含めて、アイゼン ハワー自身にある。

だが、冷戦の氷を砕こうと最初に試みたのはアイゼンハワー政権であり、大統領自らもこの試みに参画した。職業軍人として生涯を軍務にささげたアイゼンハワーが、祖国に軍国主義の危険を警告するアメリカ最初の政治指導者となったのは、非常に注目すべきことだ。事実、政治家としての最後の発言で、軍産複合体について国民に警告したのだ。

- それでは後に緊張緩和として知られるようになった現象が、すでにアイゼンハワーの大統領第二期に始まっていたかもしれないと考えるのか。

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A この点で、もう一つ検証できない歴史的状況に直面する。だがあなたの示唆することは、まったくもっとものように思える。そしてそうした事態が起きていたら、一九六〇年代はずいぶん違っていたことだろう。

- ニクソン大統領に対するソ連の評価はきっとかなり高いと思われるが。

A その通りだ。というのは、対決から交渉へ、冷戦からいわゆる緊張緩和への方向転換はニクソンの下で、ニクソン自身が参加して実現したからだ。しかし政治家の評価というものが往々にして、その功績そのものよりもむしろ、後継者の功績との比較で決まるということを考えるだけでも、ニクソンについて最終的な判断を下すのは早過ぎるかもしれない。後継者があまりにお粗末なために、凡庸な政治家でも立派な歴史的人物に祭り上げられることもある。またその反対に、非常に優れた政治家が、 さらに偉大な功績をあげた俵継者の陰に隠れてしまうこともあるだろう。

- 後のほうの事態がニクソンに起こる恐れはまだないようだが。

A そう、少なくとも一九八四年までは安全のようだ。ところで、ニクソンについては、つねづね不思議に思っていることがある。アメリカの政治家や公職にある人たちと多くつき合ってきた私自身の経験から得た印象では、この人たちは公職を離れると一段と賢明になり、バランスもとれ、洞察力も高まって、ずっと為政者らしくなるか、あるいは少なくともそれらしく見える傾向がある。

これはひょっとしたら、まったくあと知恵のせいかもしれない。また、公職というものが、人間本来の能力を制約する何らかの枠をはめてしまうものなのかもしれない。しかしニクソンやその政権で指導的人物だった人たちは、この原則から驚くほどはみ出した者が多い。この人たちの場合、われわれの見るところ、まるで正反対なのだ。

ニクソンについていえば、ウォーターゲート事件や辞任を強いられたことの心理的ショックという

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ことだけでは説明がつかないと思う。ニクソンがたまたま大統領に就任した歴史的時期には、有無をいわせない強力な時代の論理が働いていた。ニクソンはこの論理に導かれて、幾つかの重要で現実的な決定を下したのだ。言い換えれば、歴史がニクソンを、その人柄や実力以上に引き上げたと言ってもいい。

しかしその後ホワイトハウスから追われると、ニクソンはまた歴史から切り離され、言ってみれば知的にも政治的にも、さらに人物としても、元の大きさに戻ったのだ。緊張緩和はニクソンの政治的経歴の頂点だったが、ニクソンはまるで自分のしたことを謝るかのように、緊張緩和を嘲笑しはじめた。将来、何かの政治的役割を引き受けられるようにするため、自分自身の記録を修正しているように見えることもあった。

偉大な業績を傷つけるニクソン

- ニクソンが、偉大な大統領として歴史に残るとは思わないか。

A 歴史は人の評価について非常に奇妙ないたずらをすることもある。だからそうした当て推量をするのはやめておこう。しかし、ニクソンが大統領として、非常に困難な時期のアメリカを導き、世界におけるアメリカの、以前よりも現実的で新しい役割を明確にするうえで、重要な貢献をしたと歴史が記録にとどめるなら、それは公正だと言っていいと思う。

私はもちろん外交政策についてだけ話しているのだが、この面でもニクソンの記録は矛盾に満ちている。ベトナムでの平和解決を五年も遅らせたことや、カンボジア破壊、チリでの出来事を改めて指摘する必要はないだろう。内政についていえば、ウォーターゲート事件で最後を飾ったわけだが、帝王型大統領の傾向はニクソンが始めたものではなく、アメリカの歴史の長い伝統だった。

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- ニクソンは自分の著書『The Real War(真の戦争)』の販売促進のため一九八〇年春、ヨーロッパを旅行した。このなかでたとえば、自分の大統領在任中、アメリカは終始「ソ連と戦争状態にあった」と述べている。

A もしそうなら、一九七二年にモスクワでのソ米首脳会談の後、自ら宣言した「平和の世代」はどこに行ってしまったのか。ニクソンはあの時、自分がなし遂げたことを誇りにするあまり、キッシンジリャーにその「有頂天ぶり」をたしなめられたほどだ。こうしたことはいずれも、すでに論議したことを改めて裏付けるものだ。ニクソンが一九七四年、わが国指導者たちとの最後の首脳会談の際、あらゆる公式の場でソ連への友好的態度と、わが国の党書記長との個人的「友情」を強調したのを、私は 今も覚えている。

ニクソンの昨今の発言は幾らか嘆かわしいことだと思う。ある意味ではニクソンのために残念だ。というのは、緊張緩和への移行という、ニクソンの生涯でのたった一つの大きな業績を傷つけ、つまらないものにし、実際より小さく見せようとしているからだ。ニクソンの政治的業績としてほかに何が歴史に残るというのだろう。アルジャー・ヒス事件か。それともチャッカーズ演説か。

- 一九八〇年五月、ニクソンは西ドイツで、アフガニスタンがまさに第三次世界大戦への一段階だと言明した。

A かつて社会であれほど高い地位にあった人びとが、どうしてこれほど安易に言葉を吐き散らすことができるのかわからない.賢明な外交政策にとっては.世界をありのままに認識することが必要条件なのに.気に入らない国際的出来事の一つひとつに.第三次世界大戦の始まりというレッテルをはっていたら.次第に現実感覚なるものをすべて失ってしまうことになる。

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力ー夕ーのあいまいな態度

ーフォード大統領の役割は、ソ連ではどう見られているのか。

A ソ米関係についていえば、フォード大統領が、一九七四年のSALTIIについてのウラジオストク合意のような重要な政治的業績をあげたことを正当に評価すべきだ。しかしフォードは、右翼から圧力を受けるとすぐに強硬政策に逆戻りしはじめた。私の念頭にあるのは、SALT交渉の凍結、軍備再強化計画の採用、さらにはアメリカの政治用語から「緊張緩和」という言葉さえなくそうとしたような行動だ。

後に選挙に敗れたあと、伝えられたところでは、フォードは右翼の圧力で恐慌をきたしたのは誤りであり、それが選挙に敗北した原因だったかもしれないと考えていたという。残念ながら、フォードの選挙時の行動は、アメリカの政治慣習としては例外的なものではない。

- カーター政権が米ソ関係に与えた影響については、どう評価するか。

A 一九七九年から八〇年にかけてソ米関係で起こったことに照らしてみると、ソ米関係の分野でのあらゆる紛糾の、唯一とは言わないまでも第一の元凶はカーター政権と考えたくなる。しかし最近、レーガン、ヘイグ、ニクソン、あるいはキッシンジゃーといった人びとの発言を聞けば聞くほど、そう考えてしまうのを踏みとどまりたくなる。それに私は公正でありたい。両国関係の否定的な傾向は、カーター政権の登揚よりずっと前に始まっていた。

緊張緩和に対する最初の反撃は、一九七二年に早くもその感触があった。その後、二クソン政権の最後の数ヵ月間、ペンタゴンは大統領の外交行動の自由を大幅に制限し、その結果、ニクソン大統領は一九七四年にモスクワにきた際、SALTIIに関連した実質的間題ではごくわずかのことしか交渉で

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きなかった。一九七四年末、議会はソ米通商協定をご破算にした。次いでフォード大統領はSALT交渉での立場を凍結し、大規模な軍備再強化計画を開始した。

カーターはこうした傾向を変えるどころか、強力に推進した。だがカーター政権発足当初の情勢は、それほど一面的ではなかった。

- カーターに対するソ連の当初の姿勢はどうだったのか。

A カーター氏は自分の国でさえ、ほとんど知られていなかったのに、われわれにどのような対応がとりえただろうか。もちろん、ある程度のことは知っていたし、そうした場合はいつものことだが、心配の種となるような事実もあれば、希望を抱かせる兆候と受け取れる事実もあった。カーターの大統領就任後、ソ連政府は依然として対米関係を改善し、利害が共通する領域で協力する用意があることを、完全に明確にすることが適当だと考えた。しかし、こちらの姿勢は報いられなかった。

もう一度言うが、状況を単純化したくはない。あの当時、アメリカのバワーエリートの間では、外交政策をめぐり激しい闘いが展開されていた。カーターは強硬論者にある程度の希望を抱かせたが、形を整えつつあったカーター政権は、全体としては、軍備管理や緊張緩和を破綻させるとは約束していなかった。

そこで右翼はカーターをリベラルだといいたて、新しいグループを作って政権に圧力を加えた。そして、ソ米関係での前向きの動きをどんなものでも妨害しようとし、同時にカーターが右寄りに動く誘因を作り出そうとした。「現在の危機委員会しが、エリート連中の強力なお墨付きと、権力中枢との親密な結びつき、さらに全体として「尊敬に値する」外観を備えて、まるで影の政府のように設立された。古いタカ派グループの動きが一段と活発になった。

- なぜカーターはそうした圧力に屈服したと思うか。

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A カーター政権が毅然として、緊張緩和を支持していたら、そうした圧力に耐え、議会と国民世論どちらの場でも建設的な指導性を発揮できただろう。

しかし問題は第一に、カーター自身が疑問の余地のない立場をとることをせず、はっきりした約束もしなかったこと。第二に、緊張緩和に反対するグルーブが政権内部に、ズビグニュー・ブレジンスキーやジェームズ・シュレシンジャーのような、かなり著名な代表を送り込んでいたこと。そして第三に、カーターが広く意見をまとめ、すべてのグループを満足させることができると自分の能力を過信していたことだ。

その結果、カーター政権初期の外交政策に対する取り組み方は、緊張緩和の推進と緊張緩和反対の両方の立場の重要な要素を政策に取り込もうとするのが特徴となった。こうしたあいまいな態度は、ソ米関係を損なっただけでなく、カーターには実は一貫した外交政策がないのだ、という至極もっともな印象を生み出した。いったんそうした印象を与えたら、自分の行動に支持を結集できないのは当たり前である。

- あなたは、カーターにソ連から合図を送ったことに触れたが。

A 大続領就任に先立って、カーター氏はすでにソ連政府とのつながりを作っていた。カーターはどうやら、前任大統領の残り任期中か、大統領就任直後の数週間以内に、ソ連に「試される」のではないかという疑いを抱いていたようである。大変心配しているようだった。だからソ連について、悪いことをずいぶん聞かされていたことがわかった。

さて、カーター氏のもとには、非常に前向きの回答が届けられた。「心配する必要はない。われわれは新しい大統領を″試す″気はない。われわれには対米関係改善のため努力する用意がある」といった趣旨のものだ。実際、ソ連は政権の移行期間中に、ソ米関係の重要な分野で、少しでも困難を引き

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起こすことがないよう配慮した。

人権キャンペーンを境にして

- そして一九七七年一月、就任式のちょうど前日に、ブレジネフ書記長がトゥーラで演説した。

A その通り。ブレジネフ書紀長は、緊張緩和を実現するには途方もない努力を要したと述べ、蓄積された緊張緩和の財産を浪費しないよう訴えた。書記長は「アメリカの新しい政権とともに、両国間の関係を新たに大きく前進させる用意がある」と述べた。またSALTII条約を早急に締結し、引き続きSALTIII交渉を開始するよう呼びかけ、さらに核拡散防止のための新しい措置を実現し、ウィーンでの中部欧州相互兵力軍備削減交渉で合意に達するよう訴えた。ブレジネフ書記長はまた、アメリカで激しい論議の的 になっていたソ連の軍事上のドクトリンや考え方に関連して、幾つかの重要な点を明確にした。ソ連政府は、関係改善の道が開かれていること、緊張緩和を継続する用意があることを伝えたのだ。しかし、数週間後にもたらされたワシントからの回答は、こうしたソ連側の考えとは違うものだった。

- 人権キャンベーンのことだと思うが、反体制派のサハロフにホワイトハウスの便箋を使って個人的書簡を送るといったやり方は、アメリカ国内でも、雑誌タイムやジエームズ・レ

ストン、そのほか多くの人たちから大いに批判された。

A しかし書簡が送られたのは事実だし、その後の出来事をみると、これを特殊な事例とは考えられないことがはっきりした。唐突な「人権」キャンペーンと相前後して、対ソ関係で最も重要な幾つかの間題をめぐるアメリカの政治的立場が急に変わった。サイラス・パンス国務長官が一九七七年三月、

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モスクワを訪問して提示したSALTIIをめぐる提案は、一九七四年のウラジオストク合意とはすっかりかけ離れたものだった。

- これはソ連にとってショックだったか。

A 事態がそうした方向に進んでいるという兆候は得ていた。だが、だからといって、事態が容易になったわけではなかった。私は当時のことを大変よく覚えている。あの時の私の印象では、バンス一行との会談に臨んだわが国の代表たちは、バンスのモスクワ滞在の最後の瞬間まで、アメリカ側が結局、何かもっと現実的な提案を、少なくとも次回交渉のための予備として示すだろうと考えていた。

バンスが最初の一括堤案以外には何も提案するものを持たず、これほど露骨に一方的で、これほどあからさまに、アメリカ本億の利益をかすめ取ろうとする提案をわれわれに示すために、モスクワまではるばるやってきたとに、信じがたいことだった。バンス長官の最初のモスクワ訪問が失敗することは、すぐに明らかになった。

- キッシンジャーだったら、そんな成功の見込みがない任務についたと思うか。

A バンスでも、そんなことをするとは思わなかった。バンス個人は政治家、外交官として尊敬に値する人だ。率直に言って、どうしてあんなことになったのか、今でもよくわからない。キッシソジャーについて言えば、数年前にその質問を受けていたら、ノー、そんな任務にはつかなかっただろう、と答えたかもしれない。しかし今は、キッシンジャーの最近の演説や諭説を見るにつけ、深刻な疑問を持たざるをえない。

- ヘンリー・キッシンジャーは、バンス、ブレジンスキー、カーター政権首脳の半数以上の人たちと同じように、ロックフヱラー家の巨大な金力の助けを借りて名を成したが。

A ロックフェラー家自体や、外交関係評議会あるいは三極委員会のように、ロックフェラー家が積

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極的に関与している団体と何らかの形で関係ある人物が加わっていなかったアメリカの権力は、この何十年間、一つもないと思う。しかし、これはロックフェラー家に限ったことではない。ロックフェラー家は、われわれがみるところ、外交政策エスタブリッシュメントが奉仕しているアメリカの企業エリートのなかで最も目立ち、言いはやされている人たちにすぎないからだ。

- そうすると、カーター政権が準備したソ連との最初の会談は失敗に終わったというわけだ。

A その通り、失敗だった。あの会談は、ソ連に非常な失望感を生み出した。一番重要なのは、われわれがあの会談の結果、新政権の物事への取り組み方全体と将来の政策について懸念を強めたことだ。カーター大統領就任後の最初の数ヵ月で、はたしてアメリカの政策に継続性はあるのか、という疑いが生まれたのだ。

その前の政権は、ソ連と幾つかの協定を締結した。しかしカーターは、これらの協定に自分も拘束されると考えるだろうか。それとも新政権はすべてをご破算にして、一からやり直したいのだろうか。これが、われわれが抱いた疑問だった。間もなく、両国関係に一種の循環バターンが表われはじめたことが明らかになった。

- しかし率直に言って、西側では逆に、熱くなったり、冷たくなったりを絶えずくり返すそうした戦術は、ソ連が外交政策を進める際のまさにお得意のやり方だと思われているが。

誠意と善意による混乱

A ソ連の外交政策は何年にもわたって、きわめて一貫している。少なくともこの点については、西側といえども、われわれが高く評価されていることを否定できないと思う。アメリカの政策、特にカ

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ーター政権下での政策については記録を見ればよい。一九七七年に幸先悪いスタートを切ったが、春の終わりから夏にかけて事態はほんの少し改善し、一〇月にはSALTIIと中東で合意に達することができた。後者は数日後に事実上、破棄され、一九七八年には事態にまた下り坂を転がり出した。

今度は、ブレジンスキーの訪中と、五月にワシントンで開かれたNAT0会議で、事態はさらに深刻になった。夏にはソ米関係は、七〇年代を通じておそらく最悪だったろう。

- そうすると、緊張緩和はカーター政権の期間中に葬られたということか。

A あなたの表現は正確ではないと思う。私の意見では、緊張緩和は死んではいない。しかしここ数年間、特に一九七七年以降、ソ米関係が次第に安定性を失ってきたのは事実だ。事態が一回りするたびに、前の一回りよりも緊張緩和を傷つけた。

両国関係をこれまた損なったのは、マスコミだけでなく、公式の発言や宣伝でも反ソの調子がますますヒステリックになってきたことだ。カーター、レーガン政権はこうしたキャンペーンをあおり立て、両国関係を結びつけるもう一つの重要なつなぎ目、つまり中身と雰囲気をつなぐものを無視した。

このつなぎ目については、キッシンジャーがうまく表現している。「われわれは中身を手に入れないで、緊張緩和の雰囲気だけを得ることはできない。同様に、疑惑と敵意の雰囲気の下では、緊張緩和の中身が失われることも明らかだ」と、一九七四年に警告している。結果として現在、ソ米関係には緊張緩和の雰囲気もなけれぱ中身もなくなってしまった。

もちろん、すでに述べたように、こうした関係悪化の進み方には、特にカーター政権の下では高低があった。事態が改善するのではないかという希望を抱かせた時期もあった。

- ウィーン首脳会談のことを考えているのか。

A そう。SALTII条約はようやく一九七九年六月、オーストリアの首都で調印された。それは、

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まさにたいへん重要な出来事だった。軍備管理の一歩前進であっただけでなく.他の軍備管理交渉や政治的環境全体にも、よい影響を及ぼしうる成果でもあった。しかも、非常な困難を乗り越えて得られた成果だった。

しかし条約に批准を必要としていたし、批准をめぐってワシントンで激しい抗争が起こることは目に見えていた。その後の事態については改めて触れるまでもない。重要な条約がどのようにしてだめになるかを教えてくれる例が歴史にあるとすれば、これこそその例だといっていい。

-SALTIIにはまだ望みがあるか。

A そうあってほしい。しかし今や、SALTの交渉過程全体の先行きを心配しなければならないと思う。交渉の進展が一カ月遅れるたびに、特にこれに伴い軍事予算が一貫して増え、新しい兵器体系が導入されるなら、新たな重大な危険が生じる。しかしカーター大統領の話に戻ると、カーターが一九七六年に軍備管理と軍事支出削減の理念を守ると約束し、最終目標は核兵器への依存を全面的に除外することだと宣言したのは、うそだったとは思わない。

また、大統領が自分の政権に何人かの強力な軍備管理推進派を含めた点の誠意も疑わない。だが別の機会にまったく正反対の見解を表明したときも、同様に誠心誠意だったことは明らかだ。カーターの誠意よりも霞要だったのは、政治的支持を固め、大統領再選を確かなものにしたいという願望だった。一九七六年のカーターと一九八〇年のカーターとを比べると、地獄への道は善意でおおわれているという、よく知られたことわざを思い出さざるをえない。

要約すれば、ソ米関係の全体的枠組みの腐食が進み、それが頂点に達した一九八〇年初めには、緊張緩和から冷戦への公然たる転換が起こったといえる。


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