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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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9 ミハイル・スラトnフスキー
10 アンドレイ・マルコフ
11 アナトリイ・マルヒン

編者はこれから行なわれる三人とのインタビユーは一 つのものと考える。と言ぅのは、この対談はモスクワの ソ連邦科学ァヵデミー極東研究所で三人一緒に行なわれたからである。

ミハイル・スラトコフスキー (Michail Sladkovsky)教授 はシベリアのクルクヴエンナヤ村で一九〇六羊一月二十 ー日に生まれた。彼は一九三〇年ゥラジオストックにある 播東関係の国立大学の経済学部を卒業した。ー九六六年に はソ連邦科学ァヵデミー極柬研究所长となった。彼には多 くの著作があるが、主なものに、『ソ連と中国の経済関係 史』『中国の対外政策』『中国と日本』などがある。

アンドレイ・P・マルコフ(Andrei P. Markov)教授は ー九一五年ソビエト連邦で生まれた。彼は東シべリヤのイルクーックにある教育大学で学び、以後モスクワの外交官 学校に学んだ。彼は外交官としてパキスタンや日本に赴任 したことがある。その後、マルコフ教授はジャーナリズム の世界に参加し、ソビエトのさまざまな日刊紙に関係した。ー九六八年以後マルコフ教授はソ連邦科学アヵデミーの極東研究所の歴史・科学部門の部長を務めている。教授 には数多くの著作があるが、その中のいくつかをあげれ ば、『日本の軍国主義』(一九七ニ年)、ー『 中華人民共和国の外交政策と国際関係』(一九七四年)、『労農主義と反帝国 主我』(ー九七四年)などである。

アナトーリイ・マルーヒン(Anatoly M. Malukhin)教授 はー九ーー年ロシアに生まれた。一九三ニ年彼はモスクワ工科大学を卒乘、一九三三年から一九三六年までソ連鉄道の仕事に従事した。ー九三七年から一九四三年までジャー

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ナリストとなり、その後モスクヮの外務省外交官学校に入 学し、一九四七年から一九六八年まで外務省に勤務した。彼は多年にわたって中国亊情を専門に研究しており、一九六九年ソ速邦科学ァヵデミー極東研究所の中国専門家に任命された。

 

何年か前、モスクヮに行った時私の友人である『プ ラウダ社』のオリガ・チエホ卜キナさんに尋ねたこと があリました。「アジアではロシアにとって何が一番 問題だと思いますか。」私の予想に反して「重要な問 題は中国ではなく、むしろ日本なのです」と言った彼 女の返事に私は驚いたものでした。

S (スラトコフスキー教授) 一国の重要性は、 ーつだけ ではなく多くの要因にょって決定されると思います。経済関係の発展といぅ見地からすれば、 当然日本はきわめて重要な地位を占めます。この分野では日ソ関係の大き な発展が将来予想されます。しかし政治的側面からみると中国が私逹の考祭の対象として相当宙要な地位を持っ てくるのは当然です。と言ぅのはここ数年来中国の指弈者が私逹の国境付近で起こした緊張関係は公然の事突ですし、それがまた一般的状況の悪化をもたらしたわけです。しかし実際には私逹は中国自体に問題 があると言っ ているのではなく、その現状を爱えているのです。中国 とのつながりは歴史的、伝統的にも数世紀の経過があります。私逹と中国は本質的に相違する点はありません。主として、毛沢東が政権をとり公然と反ソ政策を進めてきた結果、状況が悪化したのです。現在の政治状況からみるとわが国と中国との間の問題はかなり。要な意味を含んでいます。

 

ィンドネシアのスカルノ前大統領はよく私にaいま した。「私連はオランダ人と強いつながリを持ゥてい ます。しかしオランダ帝国主義は軽蔑します。」あなた が首われたことてこのことを想い出したのですが、つまリ、「私連は毛沢東主義に反対しますが中国人民に は好意を持ゥています。」といぅ。

S そのとおりです。あなたは適切に表現されました。 私達は多くの問題を抱えてますが。私達と中国指導者の間で起こっている全ての論争は中国自体に関するもので はなく毛沢東政権下の政府との関係に関する問題なのです。これにつけ加えたいのは毛沢東の追求する政策は反ロシア的であるだけでなく、反中国的でもあるといぅこ

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とです、これは中国の莶本的利害に反するものです。あ なたの先ほど言われた結論 - 私達は政治家と人民を区 別すべきである - は正しいのです。特に自国が他国と共有する基本的利害についてはこの区別に注目することが必要です。

 

林彪はソ連に最も友好的態度をとった人として知られていたのですが、彼の失脚に関していろいろなことが言われています。北京の権威筋ではモンゴル上空で墜死したと首われています。ところがソ連政府は林彪の死体は発見できなかったと官っています。

 

S 入手できるあらゆる情報を調べてみると林彪はまちがいなく殺されました。しかし正確な状況は私にも研究所にもわかっていません。もちろん林尨がこの世にもはや生存していないことは明らかですが、その理由はいくつか考えられます。いろいろな説明が可能だと思いますが、私の意見ではーこれは林彪事件にとどまらず、政治的不安定が依然として統いている中国の全状況にも関 わるものですが - 林亊件の主な原因として次のことが あげられると思います。つまり五十年代初頭に敢かれた中国共産党の路線が崩壊したことです。それは中国の社

会主義建設を目標として十八年間統いてきた路線でした。毛沢東はこの総路線を壊したのです。彼はソ連や他の国々との関係もだいなしにしてしまいました。そのために私逹は中国への援助を中止しました。中国の社会主 義建設はこうして更に遅れました。ところが実際には。毛沢東は新しい路線を何ら定めませんでした。彼は社会 主義にかわるものも提示しなかったのです。その結果林 事件が起こり、更にこの国を特敢づける政治的不安定をもたらした一連の出来取が生じたのです。私達は林によって計画された特別のプログラムについて何一つ気 づか なかったし、今でも何も知りません。しかし容易に想像 できることですが一つのプログラムがそれにかわる新し いブログラムも提示せずに取り消されたとすれば。人々 は次のように自問するでしょう。この先どうやって行け ばよいのか、と。そこでー九七ニ年には毛政権によって 指導された急激な変化が発生し外交政策が変化しました。それは、中国が一方では反ソ政策を強化して、他方帝国主義の大国と友好関係を結ぶということでした。

林は中国承の最商贲任者として知られていました。長年の間、眾は反帝国主義的スローガンに親しんできました。そのスローガンによれば、アメリヵと帝国主我は第

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ーの敵でした。ところが急に第九回党大会が招集され、その後ただちにソ連が第ーの敵になりました。このことは政治的に中立であった多くの人々の間でも驚きを巻き起こしました。こうした急激な変化は軍内部にも動揺を起こしたのでしょうが、それが全く急な方向転換だった ためにいっそう混乱が大きかったのだと思います。林車件は政治的要素が大きい問題なので、彼の死体発見の如 何に関する問題やどういうふうに殺されたかについて正確な知識を得たといった観点からのみこの事件を眺めるべきではないと思います、それは中国共産党の 総路線が崩壊し、更に未来への明確な政治的ブログラムの欠如している結果生まれてきた政治的不安定が特徴的に表面化したという問題なのです。

 

M1 (マルコフ教授)私の個人的意見を述べてみたいと思 います。私の同僚でさえ同意しないかもしれませんが、私の発言はこの研究所を代表する意見ではないことを前置きして言いますと、林彪は毛沢東の真の支持者になれ たとは。私は決して思つていません。林は病弱でした。 彼は重病をわずらい、軍人として積極的に活動すること はもとより、国内政治の面でも実際に活動的役割を果たすことはできなかったでしょぅ。彼は軍部内部における一般的な雰囲気に多少気づいてはいましたが、国の政治 生活に関しては彼はすでに完全に孤立させら れていました。私見ですが、毛は林の権威を利用したのです。林は元帥として強力な権威を持っていたからです。林は二十 年代、三十年代の内戦時代からの英雄でした。最後に彼 は一九四七年、四八年、 四九年の内乱の重要な段階で軍の第一人者となりました。彼は满州で作戦していた主力 軍の司令官でした。私逹ソ連はこの軍隊を実際に助けたのです。後に满州に最終的打擊を与えたのはこの單隊でした。林は国民的英雄になったのです。彼の権威は印象的で実に偉大なものでした。林の軍事的権威を利用するために、林の存在は必要だったと私は信 ずるのです。毛 のグループが党を壊滅させた時にも毛グループは林の军 隊の助けを求めたのです。また取の内部にグループの影 響力を強める上でも、林の檷成が必要だったのです。だ が、繰り返して言いますが。林を知っている人なら誰でも、彼が毛の後維者だとまじめに考える人はいませんでした。林はあまりにも病弱過ぎてこの役目に適していな かったのです。

あなたの言われた日本の重要性について苜いますと、

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私はある日本特別研究グループのー貝ですが、私逹は日本が将来アジアで、多くの点で指導的役割を果たすだろうと思います。ご存知のように日本は常にそれを自認してきましたし、そうする理由もたくさんあります。スラトコフスキー教授は日本の重要性を経済的、技術的可能性の点から指摘しましたが、私は日本人の勤勉性をあげます。日本はアジアに関する大量の知識を持ち、全てのアジア諸国と直接交流を持っています。日本は、商業、政治、軍事、その他の面でこのような接触と友好関係をたいへん強く必要としているのです、これら全 てが、日本がアジアにおける指導者の一員、ひょっとすると唯一の指導者になれるという自負心を抱かせているのです。 このような指導的地位はどうしたら得られるか。日本でのあるサークルの人々は、日本が今までとってきた方法、すなわち軍事力や政治力を利用するのが最上だと考 えています。このような方法によって、日本は世界のこの部分に対する指導的な地位を雄持できるし、またそれこそが日本の国益を守る敢善の方法だというわけです。実際こうした考えを持つグループは今でも存在しますし、彼等はアジアの政治に夜帰するための苗極 策をとることが、それも上述のような政策に従うことが、望ましい結果を得るための最善のチャンスを与えるものだと考えているのです。しかし、将来日本がこのような面で指 導性を発揮する政治的機会は非常に制限されています。と言うのは日本とアジアの隣国との関係はたいへん注意 深いものでなければならないからです。それには多くの 理由があります。その結果、この分野について日本がアジアの隣国と共通の「苜葉」をみつける可能性ももちろ ん極度に制限されています。そこで日本はこれらの国と経済的関係を結び日本の経済力を拡大す る方法を迸んだのですが、これこそ まさに日本にとって実りある結果をもたらすやり方だと言えましよう。ところが、このやり方の結果について。近では多くの疑問が出されるように なりました。と言うのはこのいわゆる経済外交政策は基本的に帝国主我的性質のものであるからです。この政策の目標は日本の経済力を用いてアジアの隣国への支配を堅めるところにあります。それゆえ、これとは別の方法で日本の影響力を拡大しようとする運動も高まっています。例えば、ある勢力はソ連の提案に応じて集団安全体 制をつくって行きたいと考えています。その目的は政治 的、経済的な 面で日本とその隣国との正常な相互関係を つくって行くことです。と言うのはこのような協力体制

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を確立することのみが、日本が、隣国との正常な経済的、政治的な接触を発展させるための饨全な基礎となるからです。それは日本の繁栄の道でもあります。

 

オランダ人はィンドネシアに数世紀問いました。レーニンによって予告されたアジアの解放が一九四五年に起こった時、私逢オランダ人はアジア人の解放の声に応えよぅとせずに、帝国主義的軍隊を送リ込んだのです。私達は彼等に茶やキニーネやコー匕ーの栽培を教えたり、ゴム作リを教えました。しかしィンドネシア人との真の交流は決してありませんでした。ロシア 人は現代の中国との交流に関して同じ問題に直面していませんか。アメリカでは若者の間に(中学校でさえ) 北京語を学ぶことがたいへん流行しています。ソ連で は若者が中国に それと同様な関心を持つことはあリま せんか。

 

S 私達の国では中国についての関心は急に生まれたのではありません。私述とアジア諸国との関係はそれぞれ異なった発展をしました。しかし、主要な隣国としての中国への関心は、数世紀かけて成長してきたのです。中国への関心は大きくなり、中国語、中国の歴史や習惯を学習する気運が高まりました。それゆえ、それは新しい現象ではありません。周知のょぅにロシアの牧師逹が中国語を学ぶ基礎をつくりました。ロシアの最初の伝道師は十七世紀に中国に出発しました。かつてわが国では牧師の中に中国専門家がいました。後に、特に十 月革命以 後、中国への強い友好的感情がこの国で高まったのです。これは主に政治的観点から生まれたものです。私達ロシアの労働者がこの国の権力を引き継いでから後、中国への友好感は大きくなったのです。これは私達の指導者レーニンの教えにょるものです。彼は中国を含め奮閼中の国々を援助することは、私逹の国際的義務であると語りました。私连の中国への関心 - すなわち中国と私逹の関係を強化する方向に向けての新しい動き - が一番大きくなったのは、中国で大規模に組織化された民主的革命が開始され、中国の革命家孫文博士が私連に 援助を求めてきた二十年代のことです。

私自身も一九ニ六年の中国革命の時、上海大学で働いていました。私達ロシア人はわれわれの政治的原理の立場から中国人民を授助したいと望んでいました。その後一九二七年の終わり頃分裂が起こりました。中ソ関係 は、毛が現在とっているのと多かれ少なかれ同じ態度を

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蔣介石が採用した結果、だいなしになってしまいました。蔣は当時ソ連を赤い帝国主我と非雉し、毛は現在私 達を社会帝国主義者と呼んでいます。彼等の陳述をみると両者は一致しています。ー例として蔣介石の演説があ ります。これは国民党の指導者が企画した集会で、ー九ニ九年七月(私の記憶が正しければ)に発表されたものです。これを毛一派の指導者の最近の演説のテキストと比較してみると、使われている言葉は同一であることが わかります。すでに二十年代の後半、特にこの強力な 反ソ・キャンべーンの結果、私連との友好関係は水泡 に 描しました。これに統いて一九三ー年日本の攻擊が開始されました。中国は大きな試練に立たされました。そこでソ連は再度中国を支授しました。こぅして私违の関係 は再び蘇りました。これは科学その他の分野にまで拡大されました。わが国の人々が中国を訪問するょぅになりました。私述の軍事専門家や科学者が協力し助言しまし た。しかし第二次大戦で、中ソ関係は再び中断されました。私達自身が真剣な戦争に巻き込まれていた時わが国の国民と科学者は最も重要な問題、つまりョー口ッバの戦争に全精神を集中しました。しかし戦後まも なく中国と東洋への関心が大きくなりました。特にその頃は中国、日本、ベトナム等に人民の解放運動の波が新たに高まつている時期でした。私達の関心は国民特に若者がそれを表明しました。私達の革命の初期に経験した感情の高播が再び起こりました。それは他国の独立岡争に協力と援助を行ないたいといぅ願望です。私達はアジア諸国の 社会主義的国家迚設のために稹極的に参加し援助しました。これには当然他国との関係を深め、広範囲の準備をすることが必要でした。おそらくあなたもご存知のことと思いますので私はここで詳しくは話し ませんが、一九五八年毛はソ連との関 係を決裂させました。これはソ連 側に落度があつたのではなく毛の政策に責任がありました。この路線は大国が覇拖を追求するための好戦的排外主義と呼ぶのが一番妥当します。私逹の関係はめちゃめ ちやにされました。それも、ひととおりのことではありませんでした。これはわが国の專門家逹の援助計画にも 当然反映しました。しかし中国は私逹にとつて客観的現 実であり。私违の政治家は中国を主観的に無視することはできません。中国は私逹の隣人として存在していますし、私逹は当然のことながら中国を研究することを統けてきました。 現在の困つた政治的関係にもかかわらず私 逹は若者に中国の言語や文化を研究するょぅにさせてい

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ます。私達は未来への信念をもとにして意思決定を行なうのです。中ソ関係は今まで紆余曲折がありました。反革命のたびに反ソ主義が起こりました。これは一九ニ七年から一九三一年まで統きました。更に第二次大戦で私達が前線で苦境に立たされた時もそろでした。その時には国民党も反ソ的態度を示しました。私逹は、将来、ァ ジァ人 - 中国人やその他の東洋人 - が私達と友好関係を保つと偁じています。

 

私は日本からきたばかリです。その日本について何よリも首えることでしょうが、アジア人との意志の疎 通について首いますと、アジアのある首箝や文化を学習、研究することは、モスクワ、ジャカル夕ないしアムステルダムでもできるでしょうが、そうしてみたところでそれらの国の人々、考え方、感じ方、行動橡式などを理解する基礎になるとさえ全く限りませんね。

 

M2 (マルーヒン教授)私は中国人、中国人民の考え方と ョーロッパやその他の国の人々の考え方との相違は木質 的にはないと思います。中国についても明らかに大きな 違いはありません。私達ソ連人民は中国で働いてみた十年あるいはそれ以上の間に、特に中華人民共和国が誕生してから、このことを確信するようになりました。共通の言語がみつかりました。苜語の障壁に関して言えば、実際そういう障壁、つまずきの石は五十年代のソ連と中国には存在しなかったのです。事実、決定的障害物は何もありませんでした。ソ連人民と中国の 友人は速やかに共通の言語を発見しました。事務的な言語や政治的な言語がそれです。

S 世界の中国学については、考え方の相違する学派が いくつかあります。その中に伝統主義者がいます。彼等の大抵は、米国にいるように思います。この学派の本質は、中国流の考え方、中国の伝統や習憤が中国の知識獲得を制約していると考える点にあります。更に、この学 派の中には、中国人は各種の現代の社会政治理論に、入って行けないと考えている学者もいます。これがいわゆる伝統主義者の立場です。彼等は、現在の政治的不安定を含め、何でも同じ方法で説明しようとします。つまり彼等は社会主義は中国の土壞に根づかず、毛によっ てつくりだされた混乱、「大躍進』と「文化大革命」は社会主義 - 中国にとってはふさわしくなかった - に 対する反動であったと言っています。私達はこの意見に

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賛成できません。私達ばかりでなく、大多数の賢明な中国人も资成していません。第一に今世紀の敢も偉大な政 治家、哲学者の一人であった孫文もこの意見に同意しませんでした。当然ながら、彼は中国人として伝統文化と中国人民についての完全な知識を持っていたにもかかわらず、です。彼の後維者には、最初のマルクス主義の教 師達、すなわち李大釗、陳独秀、瞿秋白その他大勢いました。彼等も、中国人の考え方は制約されており新しい観念を受け容れられない、という偏見を否定しました。彼等はこういう意見は中国人に対する侮掙だ と言いました。中国革命の経験は、中国人が非常に有能な国民であることを実際に証明しました。中国は新しい進歩的な考え方に対応でき、政治的にも社会的にも革新的理念を実現できる能力があったことを証明したのです。しかし、この点は認めた上で、例えば中国人が権力者に屈従するといった反動的伝統を含む古来の伝統が何らかの意味で中国人の意識に影簪があるという点まで否定するのは誤まりだと思います。むろんこの古来の伝統は非常に強力な影髀を及ぽし得ることは否定できませんが、特に社会主我革命はこの伝統文化を破壊するの が主な目的 であり、その後に真の社会主我革命が逹成され、人民をその文明の頂点に導くことができるのです。この点に関して、再び繰り返しますが、中国人の意識の中では伝統が主要な決定要因だとみなす意見には同意できません。 伝統は多くの点ですでに活力を失っており中国人は現代という新しい時代に突入しています。なかんずく彼等は 現代の学説、科学、文明の存在を強く意識しています。

 

M2 西側の出版界は、中国はマルキシズムを採用する際に種々の困難に直面しているとさかんに報じているようですが、これはまちがっています。 二十年代およびそれ以後の中国の土壤ーもしそう表現してよければ - は 真の国際的コミュニスト・マルキシストを生み出しました。彼等はマルキシズムを優れた方法で自分連のものにし、とりわけマルクス・レーニンの教えに従いました。ところが毛沢東や彼のー派は中国のマルキシスト、革命運動の指導者、コミュニスト等と衝突しました。彼等の名前はよく知られています。すなわち、李大釗 、瞿秋白、彭湃等です。

 

西側の出版界は、一九七三年十月ブレジネフ書記長がィンドを肪問した离の目的はソ連が中国を包囲するための戦略の一環だと報じています。ソ連は中国、日

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本、ィンド等のアジア諸国との将来の関保についてどう考えていますか。

 

S 私はこれら諸国の現状とこれら諸国との関係については、次のように考えています。八麻の中国、六億のィンド、この人口密度があまりにも大きいために。ヨーロッパやァメリヵでは時にはある種の脅威を持って眺め、この観*からのみ中国やィンドを規定しようとしていますが、私達は人口密度を矜威とは感じていません。私連 科学者は、このような恐怖には根拠がないと思っていま す。と言うのは、これらの国は莫大な資源を保有し、更にそれを活用して繁栄を築く能力を持っていると信じて いるからです。これらの国が、それぞれ国内に 数々の抜 雑な問題を抱えていることはーとりわけ、これが中国、ィンド両国の特灌ですがー否定できません。しか しこれらの諸国は、とりわけ中国および中国人民は自分連の勢力を海外に拡張することに興味を持っているとは思いません。中国は世界贸易の僅か〇・五パーセントしか占めていないと言えば充分でしょう。これは何を意味するでしょうか。これは主たる問題は中国国内に存在しており、それらは大部分が国内的性格の問題であることを意味します。中国には海外拡張の必要性も動機もありません。インドでも事情は全く同じです。イ ンドも多くの国内問題を抱えています。長期にわたった植民地時代以来統いている贫困その他の未解決の問題が山稹みしています。今後長い期間をかけて中国とインドは主として 国内問題を解決して行かなければならないでしょう、し たがって特に私逹がこれらの国々の抑圧された人々に同 淸を寄せ、平和共存を支持していることからしても、日本、中国、インドとの国際関係は平和的発展への願いに 基づいて打ち建てられています。ブレジネフ#記長がタ シヶントやその他の機会に述べた演説を注意深く見れば そのどれにも出てくる一文が、私達の このような態度を示しています。すなわち 全ては中国の指導者自身の政治的決断にかかっているということです。彼等の議題から戦争に関する思惑や極左主我をはずしさえすれば済むことなのです。现状がどうであるか説明しましょう。

中国はなぜ政治的にあれほど不安定なのでしょうか。なぜ戦争を話題にするのでしょうか。なぜ彼等はこのような挑発行為をするのでしょうか。肝心な点は、毛と彼 のグループは中国が強大国となることを欲していることです。彼等がァジァ全体に対する职権を掌握したいので

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す。しかし彼等の資源は微弱です。拡張のための確固たる経済力を持たないために、彼等はむこうみずな政策をとらざるを得ないのです。しかしこれは充分考え抜かれていない政策です。この政策は戦争に期待し、外国同士を不和にしむけ、更に槌々の挑発により扮争を誘導して、それから起こる緊張と混乱から利益を得ようとしているのです。ところがこういった企みは全て長統きしません。これは中国人民の真の国益とー致しません。中国はやがて私逮やその他の国との平和共存の道に帰ると確信するゆえんです。ところが中国のニ、三年 先の状況予測をしてみると、見通しは暗いと莒わざるを得ません。毛は自分の強大な拖カにあぐらをかいています。人口は巨大です。毛は絶えず指導部を変えています。経験进かな幾人かの人々は自分達の地位から追放され、毛は若者、全くの未熟者を登用しました。彼は何百万の若者をあやつっていますが、これが政治不安の原因であり、この不安定はかなり長期化するでしよう。しかし、結局はこういう事態に終わりがくるでしよう。中国でさえ平和 共存の道に再び立ちもどり、私逹の政府とブレジネフ银記長が開始した集団安全を保障する状 況が中国にも実現され得ることを確信しています。

 

M1 日ソ関係の展開についての私の展望は次のようなものです。それは素唷らしいものになり得るばかりかいくつかの面では期待は現実化し得ると確信しています。日本とソ連が近接した隣国である亊実は両国の閲係を最善の形のものに維持するばかりか、それを更に発展させる不断の試みを行なうことを絶対の必要事としています。結局、私達の経験によるとそれ以外の性格の関係は両者の利害をはなはだしく損うだけです。だが友好関係は、 両国の協力の可能性を広範囲にわたって広げ、商業や経 済ばかりか、その他の分野での協力も 実現できます。

広大無辺なソ連のシベリア地域やその他の東部地域には、莫大な石油、天然ガス、石炭、鉄鉱石、銅、その他の天然資源がほとんど手つかずのままに眠っています。これらの地域で現在進められている開発は、日本の工業に原材料を有利な条件で供給する機会を与えるものです。更に、エネルギー危機が悪化し、原料や原油が高価 格化する時には、この開発は日本に特別な意味を持ってきます。同時にまた、シベリアや極東地方での日本との緊密な協力の下に進められる資源開発は、われわれソ連 にとっても非常に重要です。復雑きわまる仕#を単 純化しスビードアップできるからです。両国のこのような協

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力は、一般的に両者の信頼と友情関係をいっそう強化する意味を持ちます。

 

世界銀行のマクナマラ氏は一九七ニ年に、いわゆる第三世界の抱えている。かな国への負僙は七百億ドル に連し、彼等の支払う年利息は七十億ドルであると指 摘しました。それ以来この額は八百億ドルをすでに超 えました。璺かな国と贫しい国との格差はますます大 きくなっています。この憂慮すべき事態を終わらせるために西側の先進国や東ョーロッパの社会主義国は何 をなすべきでしょうか。

 

S あなたとマクナマヲ氏が言われた負俱は、たぶん対 外投资のことだと思います。借款と産業への直接投资を合わせた対外投資の総額は、亊突、マクナマラ氏の言う金額に相当します。これは負值です。肝心なことは、途上国の経済をいかに向上させるかということです。七百億ドルはそれ自体大きな額ですが、しかし全世界を問題 にする時にはそれほど大金ではありません。これらの国の経済発展はその国自身の独自的経済の育成に結びついています。これらの国は皆、以前植民地化されていた国ですが、彼等の蒙った主要な損害は帝国主 義的政策によるものです。これがその国の産萊発展を阻害したのです。帝国主義国は原材料だけ取って行きました。その結 果は不平等な物々交換でした。大まかに計算してみると、設備 - 工業設備 - の価格と比較した時、原料は 四ないし五倍で安く売られていました。ここに搾取の要素がみつかります。植民地化された国の福祉が、豊かな先進国からの借款や贈与にょっては増進されないのは、そのためです。むしろこれらの国には自国の産業発展の機会が与えられなければならず、単に外国の加工産業のためにのみ贵重な原料を輪出するょぅ強いら れるべきで はありません。この点に関連して苜えば、私達ソ連はこのょぅな国の自立を援助する政策をすでにとっています。実例をあげると、モンゴル人民共和国やその他の同様な諸国は私逹と友好関係を結んでいます。これらの国の産萊の自力発展のために私達は拨助しています。私達 の与えた借款の見返りとして私逹は原材料を期待せず、彼等の工業製品を輪入しています。当然、相互に原材料を輪出しています。私逹自身は多くの原料を輪出していますが、モンゴルは工業製品で支払ぅことも認められています。したがって発展途上国に対 しては、富める先進国がその国の産業化を促進 させ、相互に自国の経済利益

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を高めることを目的とする政策をとっています。これは途上国の国民経済の建設を効果的に遂行させる上でとら れるべき政策です。

 

M2 この七、八百億ドルの負債はもちろん急にできたものではなく、長い間の稹み重ねの結果であり、豊かな資本主義国と発展途上国、つまり第三世界との間での不平等な経済・政治的関係の結果なのです。これは当然、過去の植民地主義と、現在でも残存する帝国主義的関係の結果でもあります。これを解決する方法は一つしかありません。先ず、なお現存する当班国間の不平等の原則を一掃し、現在ソ連およびその他の社会主義国や途上国等が率先して進めている正常な相互関係をつくり出すことです。UNCTAD (国連贸易開発会議)も先進国 と途上囯の平等の原則に基づいた相互関係の改善、確立を呼びかけています。当然のことですが、先進国、つまり豊 かな国からの授助は、スラトコフスキー教授が先に述べ たよぅに、後進国が政治・経済的に独立できるよぅに、彼等の国民経済とその重エ業を発展させることを目的とすべきです。よく知られていることですが、最近国連でソ連が先頭になってある提案を進めています。それは先進国の軍事费を十パーセント削減して、その一部または全額を後進国の経済援助に当てようというものです。この政策は現在後進国が陥っている困難な 状態から脱出することにねらいがあるわけです。

 

先月ニュー・デリーで私はガンジー首相〔本書対談1参照〕にインドの未来、特にインドの子供逢の未来 について質問しましたが、首相の答えはとても肯定的でした。アジアの未来に関する人口、食糧、その他類似の問題について、あなたの研究所や所負の意見を閜かせてください。

 

S 中国では - インドもそうですがー土地の利用の割合は約三十パーセントですが、実際これ以上の利用は典業に不適です。残り七十パーセントの土地は全然利用できないことはありませんが、ただし莫大な投資が必要です。ある計画がありますが、これを実行するとなれば十二年もかかります。しかし可耕地は著しく拡大されると思います。現在中国には一億一千万へクタールの農耕地があります。収穫期は年に数回 - 二回、三回、時には一回 - です。平均すると中国では一回半の収穫期が あります。これは実際に殺物を収穫しているという意味

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です。あまりむちゃな強行策をとらないならば、五年ないし十年間にニ應ニ千万へクタールからニ億五千万へクタールまで耕地面樹を增加することができます。したがって可耕地を現在の二倍にできるわけです。このことは、中国がやがて三抵七千五百万へクタールまで耕地を拡大して収搜をあげるのが可能であることを意味します。現在中国の平均収獲高は一へクタール当たり十四ツエントネルです(ーツエントネルは百キログラム)。この数 値は非常に低いものです。かつて中国が作成した計画にょると、近い将来ーへクタール当たり二十ツ エントネルにまで増産する予定でした。これをもとにして試箅する と、中国のニ億五千万へクタール分の収獲高を見稹もることができます。もし右に述べた程度に耕地を拡大し平均収摟高を増加することができれば、中国は二十億人の人口に充分な食坩を供給することが可能になるのです。

 

日本についてはどぅですか。

 

S 日本は繁栄の道を進んできましたから食生活が変化しました。殺物の需要は減少していると考えられます。日本はかつて米不足に悩んでいましたが、今日では毎年 一千万ないし一千百万トンの余剰米を出しています。こうして日本は、可耕地はたいへん少ないのですが、国内の需要に応ずることができます。日本の例からみるなら ば、かなりの人ロ增加があっても、飢餓の問題は生じま せん。インドについては正確な数字はわかりませんが、インドの場合は、河川の利用を充分に行なえば、耕地面 積はかなり増加するので、今後十年いや 十五年間の収獲 高は増大するでしょう。インドは中国よりも典業に関して問題が多いのですが、しかし私や同僚の考えによると、食糧問題を解決する可能性は充分にあります。地球上の最大の人口を持つ中国やインドの未来は有望であると思います。彼等は食拟問題を解決するでしょう。

 

すると、あなたはガンジー首相と同じく楽観的なの ですね。

 

S そうです。もしそれが、ガンジー首相の答えである ならば、私も、全ての問題は解決を見出すだろうという首相の見解と確倍とに全く同意します。

(注)钼者はこの点に関して全く同意することができない。特に永年アジア、とりわけ日本を訪問した経験や、イン ドネシアでの生活体験からすると突成しかねる。

(龟川正敬)


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