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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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16 アミルカル・O・へレラ

A. O. ヘレラ(Amilcar O. Herrera)教授は一九二〇年十月二十三日、アルゼンチンのブエノスアイレス市に生まれ、ブエノスアイレス大学から博士号、アメリカのコロラド鉱物学院から理学修士号を授与された。教授はブェノスアイレス大学およびチリのサンチァゴ大学で経済社会学を教えている。

一九六九年、バリローチェ財団に入り、天然資源局長となる。一九七二年以来、同財団によるラテン・アメリカモデルの作成責任者である。同教授はローマ・クラブの会議にも出席し、国連のコンサルタントでもある。鉱物その他天然資源に関する著宙が多い。

 

ローマ・クラブの一九七三年度東京シンポジウムについてのご感想はいかがですか。ローマ・クラブは世界が今にめちゃめちゃになるだろぅと言って屋根の天辺から叫ぶよぅなことから、よリ積極的な行動の方向 へと方向転換しているというよぅにお感じになられたでしょうか。

 

私はローマ・クラブのメンバーではありませんから、そのことについては一般的な印象しか申し上げられません。一九七三年一月のバリ近郊のルィアン・ジョサスでの会議以来、ローマ・クラブは確かに異なった方向性を持つようになったと思います。最も重大な変化と言ぇば、人類の発展を阻害する主要な障害物は、物質的なものではなく、社会=政治的なものであることを、ローマ・クラブが認めるようになったと思われることでしょう。成長の限界とかゼロ成長、人口爆発といったような問題に関しては、当然ながらなお 多くの論議を必要とするものがありますが、今述べた方向にそって明らかに関心の推移がみられます。

ローマ・クラブは、人類が直面していると彼等が考えるようないわゆる「全地球的なGa naar margenoot+」問題に取り組もうとし

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て、政治的な意見や含意を回避しながら、二、三年前からその活動を始めてきましたが、まもなくそれが不可能であることを悟ったのです。政治=社会的含意をぬきにしては、重要でしかも世界的な問題はあり得るはずがないのです。これらの問題を非政治的見地から分析することは、ある全く明確な政治的立場から分析することと何ら変わるところはないのです。現在ローマ・クラブは、このょぅな現実と取り組み始めているわけですから、正しい方向へと進みつつあるのだと思います。

 

シンポジウムの討議から考えて、私はローマ・クラブのこの事実上の方向転換はアジア、アフリカ、およびラテン・アメリカ諸国の代表者達の力によるところが大きいといぅ印象を受けているのでナが......

 

おっしやるとおりです。彼等はローマ・クラブの質的変化に対して大きな役割を果たしているのです。ローマ・クラブはその会合を初めて持った時、物理的環境にょって惹起される地球的な問題の処理に当たっては、世 界を一つのユニットとして取り扱えると考えていました。しかし今では、人類が事実上贫富二つの世界に分割されていて、人類が生存して行くためにとられるいかなる戦略にもこの事情を組み込んで行かなければならない と認めざるを得なくなりました。確かに、究極的な目標は人類が結束することでしょぅ が、この目標を達成するためには、世界政策の全体構造を根本的に修正して行く必要があります。だが、ともかくそれは遠い将来のことであって、現在われわれは、現実に存在する真実をよく見きわめることが得策といぅものです。それだけが、統一されたよりよい世界の実現を実現して行くための希望をいくらかでも与える、結局は唯一の方法なのです。

 

そラいうことで、ローマ・クラブは、テクノロジー、コンビュー夕、数字やグラフ等々から人間的側面への方向転換をはかリ、その部面に対してこれまで以上の注意の目を向けるものと期待できるわけですね。

 

コンビュータとヒユーマニスティツクなアブローチとの間には何ら矛盾はありません。数学的モデルは、特に世界の物質的な側面の研究においてはたいへん有効であり、また発展途上国がその生活条件を改善するための最も合理的な方途を見つけ出す意味では大いに役立つものなのです。しかしながら、コンビュータは単なる道具であり、そのはじき出す結果は入力として与えられる仮説

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やデータ以上には有益ではない、という事実は依然として残るのです。

 

コンビュー夕は人間頭脳の単なる一付属物にしかすぎないということてすか。

 

そうです。それは単に人間の頭脳の機能を拡大しているのにすぎません。数学的モデルは観念モデルを単に形式化したものですが、使用する変数間の正確な鱼的関係を把握することと、内部矛盾や余分な夾雑物の消去をするのに役立ちます。

 

現在議論されている問題は数多くあリますが大部分は消費の社会的および物質的効果という点に集中しているようです。このことをどうお考えになリますか。

 

消费に関する問題は、現在、世界が二分されているところの貧富両世界において、全く異なった意味を持っています、低開発国では、ほとんどの住民がその生活の必需品にさえこと欠いているくらいです。これらの人々にとって、食糧、住宅、健康管理、教育などの消費の増加は、彼等が社会の完全で積極的な構成者となるための前提条件です。全く悲惨な生活をしていて全精力をその日その日を生きぬくための生存競争に投入しなければならない人々にとって、自由とか民主主義とか社会への参加などというものは何の意味 も持ち得ないことなのです。

先進国の人々にとっては、事情は全く異なります。人口の大部分が生活の基本的必要をはるかに超えた物量を消費しております。事実上、全ての人が生存レベル以上の裕福な生活をしております。物財は次の二つの主な理由により、絶えず增産されています。その第一は市場経済が利潤の上に成り立っていること。第二に社会的には最も逭要なことですが、経済成長は社会的平等の代替物となっているということです。富裕国における社会的不平等(今では経済的不平等と同じことですが)を正当化する唯一の理由は、経済成長に よって、社会の中の誰もが特権階層が現在享受しているのと同程度の消费を結局は享受できるのだという幻想なのです。先進国の問題は富の再分配であって、決して生産の増加なのではないというのが真実なのです。

MITの研究チームはゼロ成長を唱えていますが、その推論において彼等は二つの誤まりをおかしています。その一つは、世界の平均的な消費を考慮に入れ、そのために地球の全資源のおよそ八五バーセントが世界人口の

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三分の一の人間によって消費されている事実が隠されてしまうということです。その二つは、物資が平等に分配されないような国でもゼロ成長は可能であることを暗に想定していることです。

 

経済成長の安定が将来達成される可能性はあるとお考えでしょうか。

 

先に定義したような意味での平等な人間社会が実現されているならば、経済成長の安定は経済的ないし天然資源の問題ではなくなり、価値に基づいた文化的問題になってくると思います。現在は、消費は、少なくとも資本主義社会においては、社会的価値であり、価値そのものなのです。この価値が別のもので置きかえられない限り、経済成長を止めたり、あるいはそれを充分安定させることは不可能でしょう。将来は,生產の増加を更に継続して行くべきなのか、自由時間を増大させて現在一部の人人の特権になっているよ うな文化価値を人々に充分満喫させてやるべきなのか、ということこそが世大な決定になるでしょう。どちらを選択すべきか、それを予言することは私にはむずかしいのですが、物質的な福祉という点からすれば、平等主義的な社会が真に合理的な決定を下す上で優位に立つものと考えられます。

 

バリローチェ財団のあなたの研究チームは「問題複合体Ga naar margenoot+」のどういった部面を解明しようとしておられるのですか。

 

われわれのモデルのねらいは、先進国でつくられているものにかわって、第三世界の見地からする選択肢を提示することにあるのです。このモデルはいくつかの基本的前提に基づいています。

MITモデルは今後七、八十年以内には激変Ga naar margenoot+が起こると予測しています。その激変の形態は、例えば広汎な飢饉、死亡率の増大、一般に生活の惨憺たる状況といったものであると言います。われわれは、激変をみるのになにも七、八十年待つ必要はないと考えています。すなわち、現在すでに人類の多くは激変を経験しているのです。われわれは予測される将来の激変ではなく、現在起こっている激変に関心を持っているのです。

もう一つの点は、物質的な環境に対する人類の影響力は、その社会的構造形態に大いに左右されるとわれわれが信じているという点です。この立場は、先進国が提唱している解決策の大半が暗々のうちに仮定している立場

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とは全く異なっているものです。後者のモデルでは、一般的な言い方をするならば、人間とその生態系との問の相互関係の中で、社会的搆造が比較的無視し得る要素であるか、あるいは一つの定数として考えられ得るものであると仮定されているということです。更にまた、物理的構成要素 - 例えば天然資源の総量 - のいくつかまでもが一定だと考えられる場合には、システム全体が一義的に決定されてしまいます。そういうわけで、時たま宿命論者が現われてきては、こう主張します。つまり、第三世界の悲惨を永続化すると いう代価を払うとはいえ、人口の減少および経済成長の停止という手段をとることによってのみ、災禍の回避は可能なのだ、と。

社会構造と価値体系が修正可能であるという事実をわれわれがもし受け容れるならば、それによって人類はその環境に対する影響を変化させるでしょうし、システムの中にまた新たに自由度が生まれてくるでしょう。言いかえれば、人類の未来は、変更不可能な物理的制約によってではなく人間の意志に基づいた、自由な選択が再び可能なものとなるだろうということです。

先進国の提唱する解決策の中に宿命論的なものが多いのはどうしてなのでしようか。その点を理解するためにはいくつかの歴史的事例を検討する必要があります。十九世紀の初頭、マルサスが稀少性の理論を発表しているのですが、その立脚する科学的な根拠は、最も控え目に言っても貧弱なものでした。それにもかかわらず、彼の説があれほど広範に受け容れられていたのは、当時の支配諸階級の利益に応えるものがあったからだと言えます。マルサス理論に包含されている給与政策は産業革命時代の資本蓄積の基礎でした。

文脈は変わっても、今日でも事情は似通っています。先進国の解決策は先進国の優位性を保障するような国際的,社会的機構を存続せしめようという傾向があります。そういうわけですから、世界システムの犧牲者となっている低開発国だけが、より現実的で合理的な新しい解決策を求めて、システム〈人間=環境〉Ga naar margenoot+の自由度を汲み尽くすベく探求する動機を持っているわけです。

また、発展途上国は次のような理由から、裕福な国がその過去においてたどってきたのと同じ道を歩むことはできないとわれわれは考えます。第一に、それは不可能です。なぜなら、歴史的、社会的条件というものが産業革命時代のそれと現在とでは全く異なっているからです。第二に、たとえ可能だとしてもそれは好ましからざ

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るものなのです。先進国が今日の社会的退廃と増大する疎外への道を歩んだ過ちを二度繰り返してはならないからです。

最後に、後進国は自らの発展を振興して行くために、自らの人的、物的資源に頼らなければならないと考えます。われわれは、先進国から、それがいかなるものであろうと実質的な援助を期待することはできないという事実を肝に銘じておかなければなりません。そしてそれは、早ければ早いほどよいのです。

 

以上のことはあなた方のモデルの一般的な前提になゥていると思うのですが、あなた方の数学的モデルはどのような社会的、経済的仮定の上に成リ立っているのですか。

 

私どものモデルの中心とする仮定はこうです。つまり、平等社会を目標としています。そこではあらゆる人間が、 - 単に存在しているという事実だけで - 基本的な物的、文化的欲求、つまり、食糧、住宅、健康管理、教育についてそれ相当の満足を得ることができる絶対的な権利を有するというわけです。したがって、これらの欲求は給料とは無関係に、いわゆる社会的なサービスとして充足されなければなりません。これらの基本的欲求を満たした後に文化的選択の問題が生じます。この文化的選択は各社会の文化的諸価値に依 存しますので、これはモデルで決定するようにはなっていません。この点についての唯一の仮定は、あらゆる人があらゆる社会的な決定に完全参加できることが認められる、いわゆる機会均等の仮定だけです。更に大事なことは、生産は社会的必要性から行なわれるべきであって、決して利得のために生産されてはならないということです。

以上のようなことを前提として、われわれは、人間が資源を浪費することなしに、社会の建設的な一員として完全に活動できるために必要な資材の総量はどれほどであるべきか、これを決定するための「基本的欲求関数」を中心にしてモデルを構築しているのです。食糧、住宅、健康管理、教育といった基本的欲求に対して、適当な満足の水準はどのようなものか、これまでのところ、その各々を慎重に検討して決定がなされてきました。われわれはまた、モデルに使用している社会=経済的変数の関数として人口規模を与える ような人口モデルを、歴史的事実の分析に基づいて組み立てているのです。人口の成長率をコントロールする唯一の方法は、その国民の

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社会=経済的条件を改善することであるという、歴史的事実の証をわれわれのこの人口モデルが提供してくれます。

われわれのモデルの主要目的は、適当な社会的決定が与えられた場合には、誰もが必要としている適切な生活レべルを必要な時間内で達成できるということを示すことにあるのです。

最後にもう一度強調しておきたいことは、贅沢な欲求は文化的に異なり、また民族的にも変わるものですから、われわれは、どんな社会にも不変な基本的欲求だけをモデルの中に組み込んだということです。われわれ は、人類の文化的多様性は保持されるべきであり、その程度も増大させられるべきだと確信しています。

 

中国ふうにではなく、ということですね。

 

と言いますと。

 

中国人は、毛沢東の出現以来素晴らしい発展を遂げてはいるのですが、みんな同じ赤い本を手に持ち、みんな似通った無味乾燥な灰色の服を着ているようにみえます。あなたは全国民を厳格なーつのブログラムに乗せることをしないで、よリ大きな多様性の実現を目指しておられるようにみうけられるのですが。

 

そうです。だが、中国は現在新たな社会へ移行する過渡期にあることを忘れてはなりません。われわれは,赤い本とか灰色の服とかいった外面的な特徴だけで、中国の深味のある複雑な過程を判断してはならないと思います。私は、社会の深層部における変化の過程は全てきわめて複雑なものになっていて、非直線的であり、矛盾対立に満ち満ちていると思います。したがって、中国が経験していることも決して例外ではないのです。私は残りの第三世界がどういった社会的変化過程をたどっていくかは知りません。なぜなら 歴史は二度とそれ自身を繰り返すことはないからです。しかし、これら第三世界の経済的、社会的、文化的多様性を考慮すれば、きわめて複雑なものとなることはまちがいありません。長期的な展望を試みるならば、このような過程がどう進展し、その中からどういった種類の社会が創出されるかは未だ予見できないものの、われわれはすでにこの種の変化過程の渦中にあるのです。

 

私がイン夕ビューしたアフリカ人の中には、『成長

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の限界』で述べられている問題について学生と話したリ、MIT研究報告を大衆新聞で報じたリナることは早過ぎるんだという見解を表明している人もいました。ラテン・アメリカではどのような事情でしょぅか。私は若い人達が皆さんの研究チームに参加しているかどうかということについて、特に興味を抱いているのですが......

 

ラテン・アメリカではMITモデルについてだいぶ議論されています。しかし、支配的な意見はそれが先進国の見地を代表したものであるということです。

ご質問の後段についてですが、私どもの研究チームは二十歳代の後半から四十歳代の前半までの研究員が大半ですから、そう若いとは言えません。しかし、私どものモデルの中に組み込まれた基本的な考え方には、ラテン・アメリヵ諸国の多数の若者達の理想が反映されていることは確かです。これらの理想にこそ、ラテン・アメリヵを変革する最大の可能性が内在しているのです。

 

先進国やアメリカのカリフォルニアあたリでは、禅やョガ、仏教など東洋の宗教に転向して行く、いわゆる匕ツビー速が多いのですが、ラテン・アメリカの若者達はどうですか。今のお話からすれば、そう多くいるようにはみうけられませんが......

 

そうです。ラテン・アメリヵの若者逹は一般に、こういった黙想的な態度を一種の現実逃避的形態だと考えています。彼等はわが国の総人口の六十バーセントの人間がまともな暮しをして行くための必要条件以下の生活をしていることを知つており、またこのような事情は困難な政治闘争を通じてのみ変更し得るものだということも知っているのです。

これは私の個人的意見ですが、このヒッビー連の運動は新しい世界の前衛というより、退廃的な旧社会を露呈したものではないかと考えているのです。彼等は私個人的な「解決」をはかろうとしているのであり、新しい社会の建設には何ら役割を果たしてはいないのです。

(東江 優)

margenoot+
、、、、、
margenoot+
ブロブレマテイフラ
margenoot+
カタストローフ
margenoot+
、、、、、、、、

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