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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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23 青木昌彦

青木昌彦助教授は、一九三八年名古屋に生まれ、東京大学経済学部を一九六二年に卒業した。一九六七年には、ミネソタ大学経済学部からPh・Dの学位を得た。スタンフォード大学(一九六七ー一九六八)おょびハーバード大学(一九六八ー一九七一)で教えた後、現在では京都大学経済研究所助教授である。この対談は京都大学の青木助教授の研究室で行なわれた、青木助教授は日本語で何冊かの著害があるが、その中でも『組嵌と計画の経済理論』の内容は、専門雑誌を通じて国際的な注目を集めた。

 

あなたはもと急進的な学生でいらっしゃゥたそうてすね。それからアメリカに行き、その後京都大学にこられた。現在の自分自身を、どのようにごらんになっていますか - 体制の一員Ga naar margenoot+としてですか。

 

そうですね、私はあなたがそ5おっしゃりたければ型破りの教師である、とも言えるでしよう。しかし、まじめな話、私の政治および学問的な見解は、私が受けた知的な経験や遭遇した重要な出来事のために、変わってきています。それでも自分自身としては、自分の活動や思想を、厳密な意味ではなくいくらか後やかな意味で、首尾一貫したものとみなせると思っています。十五年ほど前、私は学生運動の積極的な活動家でした。もし私が今日タイやインドネシアで学生であったとしたら、それと同じようなこと をきつとするでしよう(注)。しかし日本では、もしも今日私が学生であったとしても、例えばコミュ二ティ運動のような、もっと別の活動に従亊することでしよう。

 

過去には、何があなたをして挑戥的な学生たらしめたのですか。

 

当時われわれが反乱を起こしたのは、学生はもっと自立心が強くまた独立であるべきだ、と思ったからでし

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た。急進的な学生運動は、そのよぅにして興ってきたのです、しかしその後すぐ、われわれは、左翼運励の中にもまた権威主義的な構造があることを発見しました。つまり、共産党が学生運觔を支配していることを知りました。そこで、私達のグルーブは共産党に対してもまた反乱を起こしました。共産党は当時モスクヮの影響下にあり、モスクヮがその政策を変えるたびに自分の政策を変えていたからです。昨日は原爆に反対していたかと思えば、今日はそれに賛成する、といった有様でした“アメリヵの核 爆発を批判する一方では、ソ連の核実験を支持していたのです。その他さまざまな理由で、われわれは共産党の指導者達と大衝突をしました、事実、共産党本部の中での最初の乱閼は、この当時起こったのです。その結果私は共産党から追放されました。そこでわれわれは日本共産党の路線とも、またその他のいかなる政党の路線とも全く独立な別の急進的組織をつくり始めました。当時、その試みはまずまず成功し、政府を揺さ振りました。

一九六〇年に学生運励が絶頂に達した後学生违はお互いに戦い始めました。ちょぅど過去の党内派閥闘争のように。学生の問には、敗北感が広がりました。私は、過去の過ちが私達の問で再び繰り返されていると感じました。私は、組織はそれ自体が自己目的なのではなくて、運動の過程の結晶にすぎないと考えていました。運動自体が下火になった後で、われわれ学生運動の指導者達は、私のアバートに集まりました、友人の何人かと私とは、この種の派閥闘争の継続を拒否しました。そして私は戦線から逃亡 するものだという非難を受けました。日本人にとってはこの種の非難を蒙るのは非常に恥ずかしいことです。しかし私自身はそれによって敬意を表わされたと受け取りました。コンフォーミストであるよりは自立的な人間でありたいと思ったからです。そこで私は運動から手を引きました。私は今でもそのことを誇りに思います。臆病者は私ではなくて彼等だったと思うのです。私はゆっくり落ち着いて、マルクス主義のどこがいけなかったかを考えてみたいと思いました。マルクス主義というのは、その自称後 継者達によってゆがめられた正統マルクス主義のことです。マルクス自身は、私は、十九世紀の最大の思想家として、今でも非常に尊敬しています。しかし私は、権力をとっている時であれ負け犬であれ、マルクス主義者にみられる傲慢さと独創性の欠如に、がまんできませんでした。そこで私は、私自身の

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時問を持とうとして、東京大学の大学院に入ろうと試みました。もっともそれには二年かかりました。一年目は監獄に入れられていましたし、二年目には口述試験で落とされたからです。

 

たぶんあなたは政治的煽動家として知られていたからてしょう。

 

さあそれはどうですか。ともかく私は大学院に入りました。しかし日本の中で暮すのが非常にむずかしいと知りました。物的にではなくて精神的にです。というのは自分の考えを自由に発展させたいと思っていたからです。ところが日本では、好んで人々にレッテルを貼ります。つまり人を陳腐な型にはめて分類してしまうのです。私は自分をあらゆる過去から切り離したいと思って、アメリカに渡り学生として最初からやり直しました。

 

アメリカのどこですか。

 

先ずミネソタ大学に行きました。その理由は、レオ二ード・ハーヴィッツという教授がそこにいたからです。彼は、一九三〇年代に経済学者の間で行なわれた社会主義の経済的可能性に関する有名な論争からのょい成果を受け継いでいました。彼は、価格機構を用いた分権的な統制経済システムの研究をしていました。私は、東欧の社会主義国にみられる過度の集権化が持つ非人問性と非能率とに幻滅していましたので。ハーヴィッッ教授のアブローチは非常に魅力的でした。ミネソタ大学では、私は、いわゆる市場メカニズムの「波 及効果」 - 経済学者の通常の用語では「外部効果」 - がある場合に、経済の分権化は果たして可能かという問題を研究しました。外部効果というのは、価格機構を経由しない経済活動効果のことで、例えば環境汚染や交通混雑などがそれです。私はそれを博士論文のテーマにもしました。この研究の結果、私は、集権化対分権化という二分法にはもはやコミットしていません。事情に応じて、分権的な価格機構と集団的な統制との最適の結合が必要なのです。ですから、今の私は、市民参加等々の方式を通じて公共活動を民主化することに 関心を持っています。

 

ミネソ夕大学の後はどうなさいましたか。

 

一九六七年に、私はカリフオル二アのスタンフオード大学で教え始めました。これは興味のある時期でした。

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ベトナム戦争に反対する学生運動が真盛りとなっていたからです。また、とりわけカリフオルニアでは、ヒッピー運動も花盛りでした。それまでビート二ク達は、商業主義と大企業の支配によって形作られたコンフオーミズムに対して、よい意味でのきわめて個人主義的な生活を対置させよぅと試みていたのではないかと思います。今から振り返ってみると、ヒッビー達はこのアプローチを逆転させたといってよいかもしれません。つまり、彼等は集団的で共同体的な生活様式の実験を行なったのです。われわ れ日本人は、アメリカ人のやり方が進歩への道であると考えてアメリカ人の後を追っかけていたので、アメリカでの対抗文化Ga naar margenoot+との出会いは、非常に価値あるものであり、人間的で静的な生活を送る上でわれわれの東洋的な伝統が持っている価値を再発見させてく れました。

 

あなたはこの頃、京大の学生に、経済の分野以外では、どんな話をしていらっしゃいますか。アメリカの共同体ての生活経験を、彼等に話してやっていますか。

 

とんでもない。日本ではいわゆる対抗文化は、アメリカから輪入されたものですし、商業主義によって利用されています。それはほんとにひどいィンチキな代物です。同じことは現在のアメリヵにも当てはまります。たぶんこの種の実験のー番最初の時期だけは別でしょうが。私は、学生達と一緒に経済学の新しい枠組みをつくることを、今ではもっと楽しみにしています。この種の試みは、アメリヵでもィギリスでも、ハンガリー等々でも、どこでも行なわれています。われわれは、個人の自覚的な発展に、より 役立つような経済的な仕組みを探究してみたいと思っています。そのような目的にとっては、私の過去の経験全体が非常に有用なのです。

 

あなたの大学には、あなたの側に立つ教授が少なくとも何人かはいますか。

 

そうでもありません。皮肉なことに、これが、マルクス主義が今日でもきわめて強い影響力を持っている結果の一つなのです。しかし、ここではマルクス主義は硬直した教義になってしまいました。マルクス主義に固執しているほとんどの教授達は、真のマルクスの精神をなくしてしまいました。

彼等は、聖書を解釈していた中世の僧侶達と同じように、資本論の単なる解説者にすぎないものとなり、学生

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との関係では非常に権威主義的な存在となっています。マルクスの精神は、マルクス主義者にならなくても受け継ぐことが可能です。そのためには、革新的かつ創造的であり、現在の状況を研究せねばなりませんが。

 

あなたの研究の中ては、例えばフォレスターやメドゥズが『成長の限界』の研究て使ったょぅな種類のモデルを使っていらっしゃいますか。

 

私の友人の中にはシステム・ダィナミックス的な接近法を使っている人もいますが、私自身は使っていません。私は制度と人間の動機との問の相互作用に関心を持っていますが、この種の側面をフォレスター流のシステム・ダィナミックスの枠組みの中に取り入れることは、原理的に不可能だとは言わないまでも、きわめて困難です。

 

物質主義の勃興が日本人に影響を及ぼしているとお感じですか。

 

非常に強い影轚を及ぼしています。この点については少しばかり悲しい思いがするほどです。他ならぬ京都をみてください。京都が、何世紀にもわたってそうであゥたのと同じょぅな非常に美しい場所であったのは、それほど遠い昔のことではありません。お寺ばかりが美しかったのではなく、普通の人家もまた、全く同じくらい魅力的に造られていました。約十年そこそこ前の話です。ところがこの新たな物質的豊かさの結果、人々は古い建物を壊して合成建材を使ったアバートを建てています。古い家々は、木 と紙と、そして美しい瓦でできていました。ところが今ではブラスチックの瓦や板が用いられ、町全体が非人間的なものになってしまいました。京都はその特徴と魅力を失いつつあります。たぶん今でも昔からの美しいお寺がいくつかは残っていますが、そのまわりには現実の生活はありません。京都の生活は東京のコビーになってしまいました。

 

物質主義の勃興は、若者自身の文化や魂や心にも影響を及ぼしているでしょぅか。

 

物質主義を主として追及しているのは、四十歳代あるいは三十歳代後半の人々です。それは、戦時中や第二次大戦直後に非常な貧困や困窮のもとで育ったか、あるいは靑年時代を送った人々なのです。私自身でさえ、食べ物を手に入れるのがむずかしかった日々を覚えていま

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す。私の両親はつらい時期を経験し、私達のために食糧を入手しようとして田舎に買い出しに出かけねばなりませんでした。その頃、米は高価過ぎて買えませんでした。この種の経験は、人々に非常に大きな影響を与えました。若い頃の経験であったがためです。そこで、日本が最終的に経済的なブームの時期に入ると、これらの人々は自分自身の家や冷蔵庫や自動車等々を欲しがるようになりました。もちろん彼等は自分の家族に対して責任を負っていることは確かです。それにしてもこの種の欲望は少しばか り行き過ぎていると思われます。今日のもっと若い世代の中には、これらの点について、愛憎入り混じった惑情がみられます。中には物質主義の勃興によって実際非常に強い影響を受けている人もいれば、また他方には、豊富さの中に育ってきたためにこの種の物質的な豊富さにはちっとも熱中しない人もいます。今別の価値を拽し求めているのは、そういった人々です。彼等は再び、東洋哲学や、仏教や伝統的な文化に関心を抱きつつあります。豊かな世界ならどこでも、十代や二十代初めの若者達にみられるのと 同じことです。しかし私は、これらの人々にもまた、百バーセントの信頼を持つことはできません。彼等は物的な豊かさを当然のこととしています。そこで、例えば食糧危機がもしも発生した際、彼等がそれに耐え得るほど真に強いかどうか、疑問です。強くあってほしいとは思いますが。私自身は、子供時代の経験を思い出して、何とか生きて行く道がみつけられると思います。ある意味では、私はそれらの日々が懐しいのです。

 

グンナー・ミユルダール〔本書第一卷対談35参照〕はフォレスターとメドウズによるローマ・クラブのための研究を「ナンセンス」だとしてあっさリやっつけました。

 

私は、あのMITの報告書『成長の限界』には、多くの共感を抱きます、結局のところ、成長には非常に深刻な限界が種々存在することが、全く明白になったではありませんか。われわれは、これまで地球を取り扱ってきたょうな仕方を、永遠に続けて行くことはできません。ところで私は、成長していたのは、また成長のための動機を持っていたのは、誰であったのかということを問題にしたいと思います。というのは、この問題は非常に重要であるにもかかわらず、従来ほとんどみすごされてきたように思うからです 。言うまでもなく、成長したいと

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思い、かつ成長してきたのは大企業や多国籍企業です。この種の商業的巨人が持つ階層的な構造が持続的な成長を要求してきたからです。これらの企業の経営は、その活動と利益をどうやって拡大するかを中心として、形作られてきています。経営機能の主たるものは、新しい製品や新販路の計画をつくることです。成長が止まるものとすれば、これらの企業の経営者は絶対平和の時代における将軍のようなものになってしまうでしよう。静的な象徴にすぎないものになってしまうでしよう。そのため、これらの経 営者達は、会社の階層構造の中での自己の地位を維持すべく、計画に次ぐ計画、拡大に次ぐ拡大、成長に次ぐ成長を目指し統けています。

 

しかも経営者達は、株主を満足させなければなりません。

 

そうです。成長は、株主のような企業活動に関わりを持つ人々の動機を満足させるものでもなければなりません。同じことは、中間管理者層についても言えます。企業が拡張して、トップの経営機能が計画のみに限定される場合には、他の棟類の管理の職務は、中間管理者層に譲り渡されます。また、会社が成長すれば労働者はますます高い货金を受け取ることとなり、このような所得の成長は統合の象徴となります。それゆえ、会社は成長に次ぐ成長を行なうような、真の動機を持っています。その場合に明らか になるのは、われわれが既存の経済組織に手を触れない限り、経済自身もまた、資源のいっそうの濫用や汚染や環境への危険等々があるにもかかわらず、成長を続けていく傾向を持つ、ということです、経済の向かうべき方向を定めるのは常に消費者であり、消費者が現在よりはむしろ将来により多く消費するために貯蓄するから経済は成長するのだ、というのは新古典派経済学の神話です。私はそれが正しいとは全く考えません。われわれの生活を形作り、型にはめているのは、消費者ではなくて企業なのです。

 

消費者の望みは、どうすれば測れまナか。

 

消费者は自分の置かれた環境に適応して行きます。 都市で健康な環境を持てなければ、どこか外国に旅行することによって、そのような環境を買おうとする傾向が出てきます。あるいは、都市を再び住むに耐える場所にするために個人的な貢献を行なおうとするよりは、むしろ郊外に住んだり都市から離れた他の場所に土地を買った

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りしたがるようになります。そのため、都市生活は悪化の一途をたどります。だがここでの基本的な問題は、人人により多くの権力を与えるという方式を通じて、会社の活動を制御するにはどのようにすればよいかということです。私は、コミュニティや地方自治体により多くの権力を与える形で行なわれるコミュニティによる制御なるものに、非常な関心を抱いています。例えば、地域住民の合意を得ることなしに会社が新しい工場を建設することを認めないようにすれば、汚染の問超は多少とも緩和されるので はないかと信じています。

旧左翼は、資本、経営、および労働の間の古典的な力関係でものを考える頌向があります。しかしながら、私は、わが国の労働組合中心主義者の中に、地域のコミュニティの他のメンバーの利益に反するような自分固有の利害関係を発展させる傾向を持つ人々がいたとしても、不思議には思いません。

今では世界的に有名になった水俣湾の汚染が、チッソの工場の水銀廃液によって生じた時、労働組合は、水銀のために病気になり死んでいった漁民達に反対して会社側に立つていたことが明らかにされています。

とても信じられません。まさかそんなことが。

もちろん私は、低い賃金や劣悪な労働条件等々に対する戦いにおいては、特権を持たない勤労者の側に立ちます。しかしながら争点が公的な問題になった時には、日本のよぅな高度に発展した国においては、古い階級闘争の図式によっては説明しきれないものが出てくるのではないかと思います。そこで私としてはむしろ、あらゆる種類の弱者を抱括するコミュニティ運動の方を支持します。私は経済成長それ自体に反対するものではありません。しかしながら、成長は、社会の中での弱者、健康や年齢や性のよぅ な自分の意のままにならない要因のために、弱い立場に置かれている人々の福祉の水準の改善に寄与すべきです。

日本はあまりにも集権化され過ぎています。実際、日本は未だに非常に官僚主義的な国です。税金の三分のニは、依然として中央政府によって徴収されています。地方自治体は三分の一を集めているにすぎませんが、実際にはわが国の公共支出の三分のニは地方自治体によってなされ、三分の一が中央政府によってなされているにすぎません。ということは、現在の仕組みのもとでは、税

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金の三分の一は中央政府から地方自治体に移転されていることを意味します。ところが、現在の移転制度のもとでは、中央政府は、その分の税金の使い方をめぐって、きわめて強い支配力を行使できます。移転される税金の全ては、その使途を詳細に規定されており、種目別に分類されています。つまり、地方自治体にやってくるものは全て、使途別の指定を受けた下付金なのです。どぅ使ってもいい贈与なのではなくて、使途別の分類がされている補助金なのです。つまり、地方自治体はそれほど強い発言力や 権限を持っていないわけです。したがって、普通は中央政府の考える利益のために使われます。言いかえれば、ある地域の人々の上により広い地域の利益が押しつけられているのです。

例えば、京都府知事は、過去ニ十年問現職にあります。実は彼は、共産党および社会党の支持を受けています。ついでに言えば、彼はもと京都大学の教授です。彼は中央政府とはあまりよい関係を維持してきていません。それゆえ、中央政府から充分な額の資金を得ることができませんでした。このことは一見不幸にみえますが、皮肉なことに、幸いなことでもありました。と言ぅのは現在の京都には、商速道路がないのですから。

私は次のことを提案したいと思います。すなわち中央政府が徴収した税金は、いかなる紐をもつけずに地方自治体に再配分されるべきです。それによって地方自治体が、適当と思ぅ仕方でこの資金を使用する自由が得られるためにです。

もしもこの種の多元主義的な方式が採用されたならば、地域住民の福祉に貢献するところは相当に大きいものがあると思います。それによって、個々の市民は、自分が住みたいと思ぅタィプのコミュニティの選択に参加することが可能になります。少なくとも個々の市民は、自分の住む地域の指導者に圧力を行使し、意見を聴かせることが可能となります。これら全ての改革にとっての鍵は、中央政府の分描化です。国際関係にも同柚の原理が適用されるべきである、と私は感じています。

 

しかし世界は、歴史上の以前のいかなる時代にもまして、単一体となっているではあリませんか。地域的な決定が、人類全体の運命に、以前のいかなる時代にもまして大きな影響を及ぼしています。アラブ人が行なった、自分の石油を自分だけの目的や利益のために使お、ぅという、あの決定をごらんなさい。

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私は、いかなる大国、あるいは経済強国といえども、中東の石油を支配する權利を持っているとは思いません。そこに住んでいるのはアラプ人連です。彼等には、石油の供給を自分自身の利益のために制御する正当な権利があります。他のあらゆる経済強国は、アラプ人が持つこの固有の權利を尊重すべきだと思います。この点に関して言えば、わが国と中華人民共和国との関係は、興味深いものがあります。中国は、政経不可分の原則を主張しています。日本の企業は、この原則を少なくとも表面上は受け容れて いるかのようにみえます。私の考えでは、日本の企業家は、アラブであれ東アジア諸国であれ、あるいはその他どこの国であれ、取引に際してはそれと同じ原則を受け容れるべきです。しかしほとんどの日本企業は、とりわけ東アジアとの取引においては、未だに高慢な振舞いをしています。

 

B・F・スキナー〔本書第一巻対談7参照〕は中国人がその社会をプログラムした仕方に、感銘を受けているようて゚す。

 

おやそうですか。私は、社会の病気に対する処方箋を窗く段になると、彼と意見が一致したことはほとんどありません。私には、彼はあまりにも操作的過ぎるように思われます。しかし、もちろん私は中国社会の発展に非常に深い関心を持っています。彼等は、工業を農業に従属させた、農業を基盤とする社会を建設しようと試みています。過度の工業化がもたらした全地球的な资源・環境危機の其只中にあって、中同は今世紀での最も興味深い社会実験を行なっていると思います。われわれ日本人は、ステレオつ きのすごい自動車を乗りまわしていますが、もはやよい「刺身」は食べられなくなっているのです。

 

これからの日中関係をどうごらんになリますか。何億もの中国の青年が今ス夕ーリン主義的およびマルクス主義的な哲学を受け容れるよう洗脳されつつあるのに対し、日本の青年はジーパンをはいてアメリ力の「ロック文化」の洪水の中に住んています。

 

わかりません。中国人のつくったものは、どちらかと言えば一枚岩的なものであることは認めます。しかし、中国人はスターリン主義者であるにはとどまりません。彼等はまた中国古典の伝統をも受け継いでいます。例えば弁証法についての毛沢東の有名な著作を読めば、それ

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が易経に似ていることに驚かれるでしょう。私はまた日本の青年が中国の隣人達ほどには一枚岩的にはならないだろうということを認めます。それは可能なことでもなければ望ましいことでもありません。しかし同時に、われわれは同時代の中国人達が行なつた道徳的なコミットメントを尊重すべきです、われわれの中では、こういつたコミットメントは、物的な豊かさを追求するに忙しいあまり、情けないほどに失われていますから。

(注)青木助教授はここで、タィの軍事政権を震掂させた一九七三年の学生の蜂起と、日本の経済的帝国主義およびスハルト将車とその一味がひきいる政權の腐敗に抗議したジャカルタでの一九七四年の学生の蜂起のことを言つている。

(公文俊平)

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