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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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26 ジョセフ・パィェストヵ

ジョセフ・パィェストヵ(Joseph Pajestka)教授は一九二四年三月九日ボーランドのミロヮで生まれた。教授は経済学者で、現在ポーランド計画審議会長官である。教授は例えば、ゥガンダや国連本部などにあって、いろいろの国連機関の仕事に関係してきた。一九六〇年にはィラク政府顧問となった。一九六二年、『投资、雇用および経済発展』を出版、続いて『発展途上国の開発形態に関する研究』を出版している他、国連の援助を得てー九七〇年には『開発の社会的諸次元』を、当時のスゥエーデンのターゲ・エルランデル首相の序言を添 えて出版している。

バィェストヵ教授は同国人のアダム・シャフ〔本書対談36参照〕氏と共にローマ・クラブ会謎のメンバーでもある。

 

一九七三年十月に開かれました今回のローマ・クラブ東京会議の議事に積極的に参加されていられたよぅですが、そのご感想はいかがですか。

ローマ・クラブのことについては、出席するまではどちらかと言うと断片的な知識しか持っていませんでした。『成長の限界』という研究がMITで行なわれたことは知っていました。ポーランドは、ローマ・クラブがこれまでとってきた全般的な立場に対してはどちらかと言うと批判的な見方をとっています。しかし、デニス・メドゥズと彼の共同研究者達が書いたその本は、ヮルシャヮで出版されて広範な注目を集めています。MIT報告については新聞にもいろいろとコメントした記事がたくさん出ました。

長いこと私は発展途上国の問題や资源、環境問題などと関係を持っていましたからおそらくそのせいでしょう、私は、早い時期に肘MIT流のァブローチには賛成できないと決めていました。発展途上国の立場に立って考えますと、経済的、社会的発展に関するこれら諸国の支配的イデオロギーは、発展への志望は充分達成可能だと

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いうものです。それは容認できることです。しかも、発展途上国側が絶えず強調しているように、これは単に物質的な福祉の問題ではなくて人間の尊厳の問題でもあ るのです。

 

人間同士の基本的な尊敬の念に導かれなければならないということでナか。

 

そうです。基本的な人間的尊敬です。『成長の限界』から結論づける限りでは、発展途上国が経済発展という方法によってその志望をかなえ目標を達成するというようなチャツスはあり得ません。MITの研究を受け容れる限り、地球と自然の持つ限界は、発展途上国が痛切にその必要を感じている進歩を許しません。ポーランドでは - 私もそれに全面的に賛成ですが-MIT方式のような理由づけは全くまちがっていると考えています。われわれの考えるところでは、現在のなげかわしい世界情勢は社会的な諸関係と諸制度とに起因するもの であり、また、国家間に貧富の差という悲劇を生ぜしめているのは、自然的な要因では決してないのです。また、人間をあざむくのは自然の仕茱ではなく、常道を逸した不合理な行動をとるのは、人間自身なのです。

破局をもたらすものは自然ではなく人間の行動である。

そうです。

B・F・スキナー〔本書第一巻17参照〕が言うていることと同じように聞こえまナが。

たぶん、アダム・シャフ教授と私とがボーランドから出かけてきて、ローマ・クラブ会議に稹極的に参加しているのはなぜかを疑問に思う向きもあるかと思います。ローマ・クラブの仕事には、一つだけ価値ある側面があると考えたからなのです。ローマ・クラブが未来を真剣に考え、長期的な展望で未来をながめているからです。そのうちにローマ・クラブのアブローチの仕方は変更さりれ、人間行動の合理性が更に高められて行くための方策の研究に向けられることでしょう。その方向へ進んで行く上でわれわれにも応分の 寄与が可能なのではないかと思われるのです。ローマ・クラブの今回の会議の中でこのょうな論点をわれわれは強く主張してきました。ご承知のとおり、もし商度成長が健全な社会諸目的の進展という目標を伴わないのであれば、現状のままの『成長の

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限界』論議はやがて日本その他の先進工業国をほんとうにかたわにしてしまうであろうという議論を私は展開しました。

平等でありたいという人間の欲望が人間行励の強力な刺激となっていることは歴史経験が証明するところです。人間は、社会諸集団であれ国家であれ、制度化された構造の結果であるところの社会的・経済的諸条件の不平等の增大、また、人間は誰しも自分自身の価値あるいは自尊心を持つものでありますが、このような内面的な感情と呼応しないような不平等に対しては決して妥協できるものではないのです。それゆえ、経済的な分野だけでなく人間行動の合理化の面で、進歩の速度が速められるように圧力、政治的圧力が集 中的に加わっていることは明らかです。

 

貧富の差がこの世界の中に現われてきたことは結局歴史的状況の結果だということですか。

 

実際、先進国と後進国との間に存在する生活および労働条件のギャッブを測定することは困難なことです。なぜならばそれは、一方に裕福な生活があるのに、他方には贫困と飢えの問題があるというふうな、単なる基しの良し悪しだけに限定されてくるものではないのです。富貧の差はまた、人間の創造的な能力の養成に本質的な影響を与え、それが更に生活水準の不平等を助長して行きます。人間は教育やテレビ、ラジオといつたマス・メディァをもってすれば、互いに親近性を増すことも、また可能なことや望ましいことの 評価を類似したものにすることもできるというのは事実です。そのことは人間行動の中にさまざまな結果を生み、社会的・政治的関係の中 に反映されて行くでしょう。そして諸国民とともに、人類全体が現代文明をみなおしているのですが、とどのつまりは自らがそのとりことなつていることを発見するにすぎないでしょう。しかし、それと同時に経済効率は社会の中の重要な要素であり、社会の動態を示す特徴となっていることも忘れてはなりません。それは人種や国民の遺伝的な特徴とは何の関係もないのです。

 

さて、問題は、ハーバードのクリストファー・ジェンクス教授の専門に入リ込んだようですね。

 

各人種間に共通な遺伝的な形質の方が支配的な要素なのです。同一人種や同一民族内における個々人間の相違は人種間や国家間のそれとは比較できないほどに大きい

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ものなのです。これはこれまでの社会経験が充分に証明してくれるところです。これと反対の議論は、偏見に基づくものであるか、あるいは経験的な根拠を欠いているかのいずれかなのです。経済効率は社会的な特徴であり、事実上どんな社会でも髙い効率を達成できるのです。だからと言って、それが簡単に、また急速に行なえるというのではありません。

更に経済効率は、合理的な行動能力、精力、革新能力等といった人間的諸特質に主として依存し、それらの相違にょって左右されるものなのです。問題意識を持った有志個々人が単独で貢献して行くことも大切ですが、経済効率が社会的構造の中に実現され、そこで新しい諸次元と価値とを獲得する、そのあり方もまた重要なのです。開発戦略と関連した多数の事業は、これを出発点としなければなりません。こうして初めて、われわれは、開発事業の範囲とその積類を理解し、そして開発政策の目標を定式化するという、ごく 基本的な結果に到達できるのです。

開発政策における経済的目標と社会的目標との間には大きなへだたりがあります。経済的目標は、一般に、資本投下や输出拡大等の方法による生炭能力の增大を通して経済の成長率の增大を目指すものです。また社会的目標には、最も広範な大衆の生活水準の改善、教育や保健等、あるいは雇用の增大、所得分配や社会的機会の均等化等が含まれます。こういった目標が互いに矛盾したり、競合したりする、とはよく言われます。理論も実践も、社会的諸目搮を押し進めて行く時、それが高い経済発展率の実現と矛盾をきたすと いう命題をその基礎に置してします。

私はこの種の会合 - 未来学に関するものでしたが - が六年前に東京で開かれた時も出席しましたが、その時大部分の專門家達は今世紀の終わり頃まで、成長率は年十バーセントが維持されると予想していました。彼等は日本人一人当たりの年所得が三万ドルに上るだろうという推計さえしていました。けれども、どういう目的にとって、こういった所得の増加が必要であり、望ましいことなのか、という疑問には誰一人として、当時、触れていなかったのです。しかし、それとは異なり、今、ローマ・クラブと『成長の限界』は、こ の重大な疑問をセ人々に起こさせてくれているのです。人々はようやく気づき始めているようです。すなわち、なるほど、所得の年々の增加が、先進国においては自然で正当なものだと

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いうィデオロギーは抱き続けてはいるものの、人々はいまや経済大国、特に日本において、必要となるであろうところの新しい生活様式、新しい展望、新しい文化的、経済的方向づけを求めるようになってきています。

私が今回の会議へ出席した大きな理由の一つは、あれから六年後の今日、日本が例えば次のような問題に対してどのような反応を示すかを知りたいということでした。すなわち、日本人は『成長の限界』から、当面の適切な結論として何を引き出しているのであろうか、日本人はその成長に歯止めをかけるつもりはあるのであろうか、あるいはいかなる制限も加えることなしに成長を無限に拡大し統けるつもりなのであろうか、日本人は自国本土よりはるかに広い地域に埋蔵されている天然资源をコントロールするための努力を 払うつもりはあるのであろうか、といったような問題がそれです。

 

日本の帝国主義が再び愎活したのではないかということですか。

古い意味での帝国主義ということではありません。しかし経済的な意味では、おそらくそう言えるでしよう。

例えば、公害を輸出しているとか、ィンドネシア水域に出漁させて、この水域の漁業資源を根こそぎにしているとか。

 

ローマ・クラブの主催で開かれているこの東京会議の議論を通じて特に強調されていることは、ローマ・クラブやMITの研究で開発されたこの理論的、実際的技法、すなわちJ・W・フォレスター〔本書第一卷対淡34参照〕教授の開発したシステム・ダィナミックスにょる分祈とその予測とが第三世界の問題研究にも大いに活用されるべきだということです。これはほんとうに強力な技法であり、しかも、研究のための強力な道具となるばかりでなく、研究結果を表示する上でもいくつかの本質的なメリットを持っているのです。また研 究者にこれまで得られなかった選択肢を開いてくれます。したがって科学のおかげで開発されたこの有効なテクニックを、発展途上囯の緊急問題の解決に充分に役立てて行くべきだというのが、私の腹蔵ない考えです。

たぶん、第三世界における特殊な問題としてわれわれが語っているものは、もはや第三世界の問題ではありません。それは実際には全人類の問題だというのが私の個

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人的見解です。第三世界を荒廃させている現在の不平等と不正は、実際には、世界平和にとっての脅威となっていることをわれわれはこれまで以上に強く認識しています。これらの地域でいたるところにみられる政治的あつれきは、とりもなおさず、この不平等と不正によるものなのです。したがって、稹極的にこれらの問題と取り組んで行くことは人類全体にとって有益なことなのです。システム分析が与えてくれるよぅな新しい科学的技法の道具を利用して行くことは非常に有望なことであり、したがってこれらの科学技 術の振興を通じて自己の影響力の浸透をはかってきたローマ・クラブと協力して行くことは有意義なことであると確信します。この会議に出席して議論を交わした科学者やその他の人達がほとんどそれと同じ見解をとっていることはまちがいないと思います。

 

アウレリオ・ペッチェィ〔本書第一卷対談70および本書対談49参照〕と彼の協同者達は、未来世代の問題の研究に真剣な努力を払っているよぅですが。

 

第一にべッチェィがいなかったとしても、他の誰かが同じことをしていたでしよう。なぜならば、地球はますます狭くなってきているのですから、われわれが地球的規模で問題の解決に取り組んで行かなければならないことはますます明瞭に認識されるようになってくるからです。私見なのですが、ローマ・クラブはその心情に関する限り、絶対まじめであると思います。私は、べッチェィ氏やクラブのその他のメンバー達とはいろいろと議論をしてきました。しかし、人間の個人的な立場は、たとえ彼がまじめであっても、そ の社会的な環境と社会的地位によって大きな影饗を受けてくることも確かでしよう。この環境の中から人間はそのィデオロギーを身につけて行くのです。私はローマ・クラブのメンバーの構成を変更すべきだと提唱しているのではありません。べッチェィ氏はできるだけ広範な人々に仲間になってくれることを勧めてはいます。しかしローマ・クラブがより以上のけ広汎で強力な影響力を持ちたいのであれば、これまで以上に広い範囲の人々に加入してもらうべきなのです。もしそれができないのであれば、ローマ・クラブはごく 近いうちにその姿を消してしまうことになりましよう。幅広い論議の場を求め、もっと効率的なものにして行くことができるならば、ローマ・クラブは決して消え去ることはないでしよう。

(東江優)


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