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Asu no chikyû sedai no tameni (1975)

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Asu no chikyû sedai no tameni

(1975)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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37 川喜田ニ郎

川甚田ニ郎教授は一九ニ〇年五月十一日京都に生まれ、京都大学の文学部地理学科を卒業した。川喜田教授はヒマ ヲャに住む人々の研究をしたが、教授の主な関心は別造性の方法や諸問題に集中しているよぅに思われる。教授は、東京の川喜田研究所の股立者で、所長でもある。多数の著書があるが、その中には ‘The Hill Magars and Their Neighbours,’ Tokyo University Press, (1974)がある。

 

人類学者達が話してくれたところでは、あなたはこの川喜田研究所で問題を解決しアィデアを発想するための特別な方法を開発なさったそぅですね。

 

私の研究所は、三つの主要な研究分野を持っています。ことによると多少奇妙に聞こえるかもしれませんが、私はこれまでの全生涯を通じて、この研究所を設立することを秘かに目指していたのです。私のごく初期の人類学的な研究は、ヒマラヤの住人に関するものでした - 私は一九五三年以来、ヒマラヤを定期的に訪問して います。私がこの研究所を設立した第二の理由は、これらのヒマラヤの原住民逹に、何がしかの技術援助をしてやるためです。私は彼等の生活から非常な感銘を受けましたので。私の仕事の中の一つの根本的 なィンスピレー シロンは。私がこのヒマラヤの人々に対して抱くように なった愛情に由来していると言えます。

 

お括をうかがうと、マーガレット・ミード〔本書第1巻対談4参照〕と彼女が一一ューギニアのパプア人に 抱いていた関心を思い出します。

 

そうですね。たぶん私はこの川甚田研究所を設立した三番目の理由も申し上げるべきでしょう。私は人間の創造性に関する特別な研究を、今、本にしています。

 

それもまた、匕マラヤの人々についてあなたがお

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持ちになっていらっしやる知識を基礎にしたものなのですか。

 

いやそれだけには限りません。他の場所の人々についての知識にも基づいています。私達は、全世界の人間の 削造性の発展を研究しています。

 

あなたやあなたのチームの研究者逢は、その目的のために他の大陸、例えばアフリカやラテン・アメリカ にも行かれましたか。

 

私の研究所の所員ではありませんが、私の親しい仲間 违が、東南アジアやアフリカにたくさん行っています。しかし次のことを強調させてください、すなわち私の考えでは、人間の削造性の発達は、人類の未来にとって最 も重要な鍵となるでしょぅ。

 

でも、あなたはどぅやって例えば日本の若者逢の問に創造性を刺激し促進することがおできになるのですか。

 

ある独自の方法を開発したのです。この研究所に直接問接関係して私の仕事に参加してくれた若者達は、人生について快活で楽天的な態度を持つょぅになりました。私が自分の考えを最初に抱いたのは、ー九五一年のことでした、しかし当時はまだその考えが充分発展されておらず、成熟していないままでした。それから徐々に、私 は今の方法を発展させて行ったのです。過去十年ばかりの間に、私の仕事は日本社会に紹介され、それが受け容 れられる率もますます速くなっています。実業家や大企業の経営者達でさえ、私の方 法を採用し始めています。いわゆるKJ法がそれですが。

 

学校や大学でもですか。

 

いやそれはまだです。わが国の学校教育制度は、この種のァプローチにはぅまく適合していません。しかし関心を抱く学者や教育者の数は、ごく最近急増し始めました。もっとも私達は、この方法を某礎とする新しい共同 体を、例えば日本のいくつかの地域の中につくろぅと試 みています。

 

あなたの方法の基本原理を説明していただけますか。

 

先ず第一に問題が提起されます。あるいは上の因の思

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illustratie

考のレベルのA点で問題が生じているのを感じます。こ の問題を解決するために、因のA点とB点との間で問題 の状況を究明し、必要な情報を野外に出て探検します。経験のレペルのB点とC点との間では、問題に適切な関 連を持つあるいは持つょぅにみえる情報を野外観察し記 録します。そしてC点とD点との間でこの情報を総合して問題を定式化し、いくつもの作業仮説を発想します。

次にD点で、持っている情報やデータを統合的に考慮した後で、各々の仮説を一つずつ評価し、そのどれを採 用するかを決めます。採用された仮説は、D点とE点と の間で推論過程を通じて展開されます。そしてE点とF点との間で仮説を検証するためのブログラムを準備します。ここで再び経験のレベルに帰り、F点とG点との問で経験を実験的に観察いたします。この観察から得られたデータに基づいて、G点と:H点との間で、採用した仮 説を検証するのです。最後にH点で結論に到违します。 そしてこの結論がわれわれの組嵌化され 体系化された知 識の一部として、頭の中あるいはその他の知識の貯蔵所 に収められることになります。

解決すべき新しい問題に直面した時には、先ず自分の頭の中を探ってそれに適応できるょぅな何らかのでき合

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いの解決案がないか調べます。頭の中にすでにある知識 によってその問題を解決するのに成功すれば、その特定の知識の有用性あるいは真実性が再確認されることになります。そうでない場合には、再び図のA点に立ち戻って、W型をした問題解決モデルを新たにム点から只点までたどらねばなりません。

このW型の問題解決モデルにおいては、思考のレベルでのA-D-E-Hという径路は、歴史の中で最も古くからの伝統を持ついわゆる「書斎科学」を表わしています。他方E-F-G-Hという径路は。近代化と共に出 現し科学一般を評価した「実験科学」を表わしています。他方ごく最近になって開発が進められているにすぎない「野外科学」は、径路A-B-C-Dによって示されています。

 

あなたの方法がそのギャッブを埋めるように思われます。

 

そうです。と申しますのは、西欧科学はD-E-F-G-Hという径路については多くの方法論を生み出した にもかかわらず、A-B-C-Dという径路を進むための、とりわけCからDに移るための体系的な方法論は何

ら生み出しませんでした。私のKJ法は、言うまでもなくこのC点とD点との間を扱うための実際的な方法なのです。ここでは、われわれはデータが語る声に耳を傾けねばなりません。先入見に基づいた考えは、決して出してはならないのです。ここでは、腹蔵のない気持を持つことが、非常に、要です。多くの人々の研究の現段階にあっては、とりわけ多様なデータが異質で高度に祓雑な場合は、相互関係の意味づけを発見することは依然としてきわめて困雄な課題として残っています。それを技術 的に可能にしたのがKJ法です。

 

あなたのKJ法の応用可能性は、人種によってあるいは国民によって違いはしないでしょうか。人々の心 理や伝統は非常に極晞に違っていますから。あなたの 方法は世界全体に逋用可能でしょうか。

 

方法論それ自体は、いかなる国民や人種にも当てはまります。しかしその中身は全く異なったものになるでしょち。

 

日本の文化は非常に理解がむずかしい。少なくともそのことは、私があなたのお国について発見しまし

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た。文化人類学者や科学者連は、日本の独自な文化に対する理解を国外に広めるためにコミユニケーションの媒体、とリわけテレビを、逋切に利用していますか。

 

いいえ、一般的に苜えばそうではありません。わが国のほとんどの科学者や人類学者は保守的です。彼等は、わが国の文化をより広い世界に紹介することに熱心ではないのです。彼等は自国の文化について、あるいは自分自身の意見についてさえ自分の考え方を表明するのに惯れていません。自分の考えを表現するのに困難を党えることさえ、しばしばあるのです。しかし、外国の文化を理解し吸収する点では驚くベき熱意と才能を持っています。

 

理由はどこにあるのでしょうか。首晤の陣壁だけで はないようですね。性格、心、ですか。

 

いやいや。文化には実は三つの発展段階があります。その第一は、私どもの言う「素朴文化」です。素朴文化というのは、文明前の社会のことです。この素朴社会においては、文化的な相互関係の鉴本構造は、直接の、面と向かっての出会いから成り立っています。この場合には、人類学者は、向かい会っての関係が支配的な型の非常に小さな社会があるといいます。私はそれを素朴社会と呼んでいます。他方の極には、「文明社会」あるいは「文明」があります。そしてそのニつの間に、つまり素朴社会と文明社会の間に、独 自の移行段階があります。 それほど素朴でもなければそれほど文明化されてもいな い段階があります。

 

それは何と言いますか。

 

「半文明社会」です。歴史的に言えば、それが現われたのは、キリスト紀元前約三千年のことです。その頃西ア ジアには都市国家がみられました。私の判断では、この都市国家は、顔を突き合わす関係を持つ社会の最高形態 です。しかしながら、都市国家は文明化されてもいます。その人ロはそれほど大きくはありません。たぶん ニ、三千人でしょぅ。ですから、依然として他人と顔を 突き合わせた関係を考えることができるのです。しか し、素朴さはもはやそれほど直接的なものではなくなっています。例えば、かの有名なソクラテ スは、聞き手に自分の考えを直接説明することができました。しかしそ

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の後では、都市国家はいわゆる領土国家あるいは帝国によって征服されてしまいました。最初の帝国が出現したのは。紀元前数世紀、アヶメネス朝ペルシアのことです。その時以来、官僚制が存在するよぅになりました。この型の人間関係は、個人的な接触を超えたところに展開します。そこで、真の文明は帝国の普及以来存在しなくなった。と言えましよぅ。もちろん、われわれは官僚主義的な国家システムを鹿止することはできません。私はただ、あなたに、過去の歴史的人類学的な評価をお話ししているだけです。さて、日本の 場合は、素朴社会から文明社会への移行段階が、確かにみられました。日本はキリスト紀元後の最初の何世紀かの間に、中国文明を受け容れました。しかし、この純粋な移行段階は徐々に消えて行ったのです。なぜなら、中国文明からのこの影響は、不充分なものだったからです。それは日本人が持っている文化的な個性を変化させることはできませんでした。その結果、素朴社会でも文明社会でもない「半文明社会」に十世紀以上とどまったのです。いわゆる封妞 社会も、この中の重要な何世紀かを占めています。

日本に真の文明段階がやってきたのは、封建領主連がお互いに激しく戦い合っていた十六世紀の戦国時代以後のことにすぎません。その発起点から数えて日本が。に成熟し文明化した社会になるには、おそらくもう何世紀もかかるでしよう。これまでのところ、日本はこの過程で僅か四世紀を费したにすぎません。現代日本人の精神は、ある意味では真に文明化されてはいないのです。われわれ日本人は依然としてかなり野蛮であり、半文明人でさえあります。われわれの歴史的経驗は、非常に未熟なものです。例えば、南欧の場合には、 真の都市国家文明の段階を確かに通過しました。西欧は遅れましたが、それでも十二世紀には真の都市文明のスタート期に立ち ました。

 

今の点が、第二次大戦後日本が西欧の技術や経驗をあれほど大量に輪入しなければならなか。たことの說明の一半になyますか。

 

そう思います。しかし先ず前の話を統けましよう。私 は素朴な文化水準から文明水準への根本的な変化に関して、ある面白い仮説を持つています。ことによると混乱を招くかもしれませんが、私はそれを深通な大変化と呼びたいと思います。文化大革命ですね。

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それを日本の若者連は現在ただ今経験しているというわけですか。

 

そうです。この文化変化には、一般的に言って四つの段階を必要とします。その第一は技術革命で、第二が産業革命です。その後で社会革命の技術が緩やかにやってきます。そしてようやく数世紀経ってから、人間精神の革命の時代が、最後にやってくるでしょう。われわれの内心を変えるには、とてもとても長い時間がかかります。例えば概して苜えば、鉄製の器具をもっと安い費用で造るという苹新が生じた時期に、以上のような四段陪の文化変化が起こりました。つまり、鉄器の大棗生産が、過去の文化的な大変化を引き起こしたのです。 それは西アジアや小アジアでは、ほぼ紀元前十二世紀に始まりました。そしてそれに統いてすぐ中央アジアの主要都 市が南ョーロッパから中国にかけて長い鎖をなして、造られて行きました。これは産萊革命の段階です。それから遅れて社会革命がなしくずしに起こったのです。すなわち部族組織から、帝国の支配する階級社会へ、です。最後、つまり第四段階に当たる人間精神の革命は、鉄器の発見に数世紀遅れて統きました。紀元前八世紀からニ世紀にかけての大思想家達の到来がそれです。これらの偉大な思想家連の出現は、この比較的短 期間に集中して います。それゆえこの現象は若干の学者の注目を引きました。

ところが、鉄器の量産を発端とする、以上のような四ステップーセットの文化大革命と同じサィクルの、しかももっと徹底した文化大革命が、十八世紀半の動力革命以来再び始まってきたのです。これがいわゆる「近代化」というものの中味でしょう。

 

日本は、その文化的発展の中でー連の大哲学者による影響を受けるという段陳をとばしてしまったとお思いですか。

 

日本は戦国時代、つまり十六世紀以来、前近代的な文化大革命にのりあげました。しかし、それが技術革命から社会革命までを仕あげたあたりで、完成しないうちに、徳川幕府が倒れたのです。それを境に、近代化という第二の文化大革命のサィクルに突入したのです。だから日本は、新旧ニつの文化大革命が重なったような按雑な状況に見舞われたのです。このような不定形の変化状態の中で、日本は近代化による文化大革命のうち、すで

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に最初の三つの段階を経験しました。すなわち、技術革命と産業革命と、そして今やゆっくりと進んでいる社会革命の段階がそれです。しかしわれわれはまだ人間精神の革命には到達してはいませんし、またそれを必要としているのです。

 

まあ日本だけがそうだというわけでもないでしょラ。

 

颀値、文化的価値の生まれかわりが、絶対に根本的に 必耍なのです。

 

日本の若者逢は今それをしているとお思いですか。

 

今それが始まったのです。多くの人々が今自分の内心の問翅について考えをめぐらせています。

 

この成熟過程はどれほど長くかかるのでしょうか。われわれはすでにしばらく前に核時代に入ったのですが。

 

私逹はこの精神の変苹を十年以内に逹成しなければならないでしよう。

 

それはそもそも可能ですか。

 

可能かどうかは知りません。それでも、それをしなければならないのです。日本での文化大革命についての私の考え方を説明するには長時間かかるでしょう。

 

あなたが文化的価值と呼んでいらっし々るものが何なのか、私にはまだはっきリしません。

 

それは、思考や感悄の中で起こる、単に知的なものだ けではなくて、心の内面で、感情の奥深くで生ずる、深 い変化のことです。

 

われわれの魂の奥底でですか。

 

そうそう、そうです。過去にあっては、何人かの偉大な思想家が、この種の革新を行ないました。孔子や仏陀やギリシャの大思想家達や、キリスト教世界の予言者违や、ゾロアスター、等々といった有名な人々の間にそれがみられます。これらの思想家連の出現が文明社会の心の中に起こった革命を指し示すものです。現在われわれは人生における新しい価値を拽し求めています。

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そのためには日本のソクラテスが必要でしょう。

 

まだそういう人が出ていません。私は新しい道をつくり出そうと試みています。私の仮定した結論はこういうことです。つまり、われわれの精神のこの発展過程にお いては、人間の削造性の発達が不可欠です。そしてそれが、われわれが今日いつの時代にも增して必要としている精神の、心の、革命の開始に黄献してくれるだろうと期待しています。突際、創造性に関する私の方法を用いて、非常に多くの人々がすでに心の生まれかわりを経験しました。彼等は精神の感受性と柔軟性の感じを取りもどしたのです。そして自分の内面の創造性の発展 を通じて、快活な人間になりました。

(公文俊平)


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