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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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[p. 210]

25 ジュリアン·ハックスレー

サー·ジュリアン·ソレル·ハツクスレー (Sir Julian S. Huxley) は一八八七年に生まれた·ィートン校およびオックスフォード大学で生物学を研究。ー九ニー年よりー六年まで米国テキサス州ヒューストン市のラィス研究所に教鞭をとる。

第こ次大戰後ュネスコの理事を務めた。

著者との会話中、サー·ジュリアンの思い出話に、ィートン校への奨学金試験で「政府が貴下に百万ポンドを自由に使つてよいといつたら何をするか」といぅ埂で作文することをもとめられ、彼はもつばら土地、庭闻を質いとつて保護管理地区にするむね書いたGa naar eind〔註1〕といぅ話があった。

著作中、有名なものに、『相対的成長の諸問翅』、『進化とは何か』、『ソヴエト退伝学と世界の科学』などがある。ー九七〇には『回想錄』を出版。

 

サー·ジュリアン、口ーマ·クラブのレポートをごらんになって重要とお考えになりますか。

 

あの本で明らかなこと、もっとも重要なことは人口增加と下水增加であり、クズの增加であり、テクノロジーの增大であり、汚染の增大である、と立証していることです。経済上の提案もありますが、私はそれについて何もいう立場におりません。私は経済学者ではありませんので。しかし私の考えではもっともa要なのは人口増加の相互関係と、指数的成長はつねに結局は倍增また倍增ということになってしまうという亊突を示すことです。これは必然的に汚染や瑪境、人間以外の生物-植物·動物-の 破壊に結びついています。人口増加は同時に必然的に都市の大きさの增加ということに関係し、それが現代世界ではつねにスラム地区をつくり出すことにつながるようです。そして一度スラム地区ができて過密状態になると填力が生じがちです。

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[p. 211]

動物の場合ですとね、過密状態になるだけで暴力を生むんです。ネズミ、無害な小さいネズミが過密状態では敢愾心をもつようになる。これが人間にも当てはまります。ローマ·クラブが経済進歩について迸いている条件が存統するかぎりはね。私たちは生存手段のために競争をつづけていくでしょう。とりわけ更新不可能な資源に関して競争をつづけるでしょう。それが戦争を生むということも考えられる。特に私たちがよい生活ということを考えず、現在の人間条件を改良していくということを 考えず、力のことばかり考えておりますとね。私の旧友ザッヵーマン卿のような批評家もいて、この本は人口增加のような长期的間題に注意を払いすぎていると批判するけれども、結局この問題は苌期ではなく、現在ただいまのことです。私たちはもっと贫困や病気の除去に注意を鬼中すべきだと批判するのですが、そうしたことはもちろん急を要するものの、やはり私は、そうした問題の背後に、この人口増加、それによって生じる汚染、こういう基本問題があると思う。

 

しかし、サー·ジュリアン、飢庙や混乱や過密と教うために経済成長が必要じゃありませんか。

 

もちろん生活水準を推持するためには経済成長が必獎です。が、それは漸增的にむずかしくなっていく。関係する人の数が増えるからです。だからインドでは国をエ業化しようといっしょうけんめいですが、さりとて過剰人口の危険は減少しない。じっさいインドの過剰人口問題はかつてない深刻なものになっているようです。

人口が增加すると農業関係の仕事は少なくなりますから、またも都市に移動する傾向が生じる。インドをご存知かどうか知らぬが、私にはカルカッタGa naar eind〔註2〕など、まことに恐しい。もちろん条件は避難民問題で一段と悪化しています。しかし分離以前もひどかった-何百人という人が街路に寝て職もないIそしてあらゆる病気。

さらに問題は-厚生施設をつくれば人が坩えるーそしてさらに老人の率が增加する。彼らは仕事をする年令ではない。「御し雉い循環」というやつです。

 

サー·ジュリアンは『人ロ論』 (ー九六〇年)Ga naar eind〔註3〕のなかで「伝統的文化は、野性種の動物や植物と同じに、生きものである」といわれました。そのあとに加えて「それが破壊されれは世界はそれだけ貧しくなる」と書かれた。

 

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[p. 212]

さいわいなことにョーロッバではかならずしもそういうふうではない。いまはィギリスにも環境省が設けられ、国内的にも国際的にも強力な保護管理団体ができましたし、それが人口抑制にもしだいに影響を与えています。

人口問題については過激な人もあって、二人以上子どもを生んだら税を課すべきだなどといっています。そこまではいくべきでないと思います、状況がどうにも容赦ならぬものになっているなら別ですが......いまのところでは与論も政治もそれは許さないでしょう。しかし一つだけやってもよいようなことはある。政府は第二子以後について家族手当を減らしてもいいじゃないか。今日ィギリスでは (フランスはなおのこと) 家族が家族手当によって生活できる。じっさい子どもが多ければ多いほど、よい生活ができる。これは困る。それは人助けも結構だが、大家族になってしまうことに関して義務を果たしていないなら、少なくとも子どもの多すぎる分の金を払う必要はないI少なくとも払う金を減らしたらよい。

 

地球をわれわれが一大国際企業の支配人か何かのよぅになって組雄化したら、われわれの自由をさらに失うことになるとお考えですか。

 

どんな稀類の自由を?

 

私が考えているのはスキナーが『自由と尊厳を越えて』のなかでいっていることで、独裁色の強い形の政 治になれは人間は自分の個性を捨てなければならない だろうというのです。

 

「個性」とは何のことです?いろいろなタィプの企業はやめなければならなくて、ある種の他の企萊に協力しなければならないだろうと思います。たとえば多量の汚染を防ぐためにゴミその他の廃棄物を再循環させるとか、ほんとうに有効な下水処理工場をつくるとか、そういうことが可能ですが、それが私たちの自由の障害になるものでしょうか。しょせん自由とはつねに相対的なもの。自分の好きなことを思いのままにやる自由はない。私が家の外へ出てビストルをぶっばなし大声でわめき騒ぐ 自由などないI私は逮抓されるでしよう。いや、もちろんィギリスには抗谦する自由があります。しかし大衆抗谦が混乱と婼カをよぶならば管察が介入できる。ものごとを改善しようとする自由をさまたげる者はいないと私は思う。しかし、もちろん工場所有者が私たちの河川に汚染物を放出する自由は減少しなければならないけ

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[p. 213]

れども、これは別問題です。

 

『成長の限界』とそれのー般への配布が全地球的問題をいっそう意識的に受け入れるための役に立っていると思われますか。

 

私にはわかりませんよ。一般への配布のしかたなど何も知らないんですから。

 

オランダでは一年間にニ十五万部売れました。

 

それはよい成被だ。しかしアメリヵやドィッの状況が わからない。

 

この本が価値あるものとお考えですか。

 

全体としてはィエス。平均的読者にとっては因表に混み入りすぎたものがあるように思うが、もちろん卑門家、社会学者、経済学者などにとっては甫要、いや必要なのでしよう。しかし、どうも書き方がかたくて、論旨を追いにくいこともある。全般的にはこのレポートはいろいろな亊実が相互に関連するしかたを示して望ましいものだと思いますし、もちろん私たちが考えなければいけないたいせつなことは、私たちがほんとうに安全と思っていたもの、すなわち地球上の海洋ぜんたいのことです 。このことはヘィエルダールが、横断した太平洋の汚染状態を報告したときに強調された。同じことは大西洋にもいえましょう。最近は南極海もさまざまな金厲元素で汚染されて来たということを読みました。それは遠く北極の氷山地帯から流れて来たものだそうです。世界の海洋は一つにつながっている。すでに危険金属元素-水銀のようなIをいろいろな炭菜が海に流して、それに汚染した海洋生物を食べて中毒した人が出ています。日本のような国が特にそうですが、同じようなことはどこにだつて おこり得る。

しかしながら環境保護運動は、たとえばィギリスにおいて、ずいぶん効果をあげたといわねばならない。サヶはまだテムズ河に戻って来ませんが、それより小さい魚はずいぶん戻って来た。まだ。ンドン市の中心はだめですが、中心に近いところまで来ている。ほかの河川もずいふんきれいになっています。しかし河川を淸くするためにはまだまだやることが残っている。

 

人ロ問題をつねに憂えてこられたわけですが、未来に希望をおもちですか。

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[p. 214]

人ロ問題に希望などもてるものですか、こんなに急增しているというのに。まあ元気づけられる唯一のことは国連、世界銀行、WHO、ユネスコが、こぞって人ロ問題処理の委貝会をつくったんです。これは新しいことです。私の『回想録』に書いているんですが、すでに一九三ー年に私はラジォがもっと產圯制限や一般に人口増加の問題を扱わなければいけないむね申しました。私はサー·ジョン·リースにお叱りを受けた。当時のBBCの会Eです。そんなヶシヵランことをいうなんて「エーテル汚染」だぞ 、と非難された。当時とくらべると、こういう問題について、考え方も (行動も) 大いに変わって来ました。問題は救済策がすべて第一に大いに一般教育を必要とするということです-たとえば家族計画の必要についてIあるいは環境が汚れないょうにする安価な方法について (正しい下水処理とか、正しい再循環といった問題ですね) 。忘れては困るんですが、私たちの使用する水を再循環させないことには間もなく水不足になる、そうなれば地球は呪われた惑星になつてしまうでしよう。

 

【対談のあとでの首葉】

トィンビーが何といったかうかがいたいですね。希望をもつているふしがありましたか。

 

いや、あまり希望をもっていないようでした。

 

何といっても彼は大歴史家です。じつに多くの文明を見たり読んだりしている-緒文明の成長と崩壊-侵略による崩壊、ひとりでの崩壊、戦争による崩壊、あまり希望がなくても無理はない。私だってそう希望はもてやしない。せいぜいが、以前にくらべて今は、状況は希望をもてるようになった-なぜなら今日では以前より人々が意識するようになったから、というくらいです。

 

マス·メディアのやらねはならぬことがあるとは思いませんか。

 

ええ、思いますね。

もちろん、こういう宿命じみたことを予言されるのは、もうウンザリだという人もいます。しかしこれは宿命じゃない、危険を正しく処置しさえすれば。

困難な仕寧ですが、人類が宿命づけられているとは思わない。人類は消滅するであろうなんていうのは、ナン センスです。人類が生き残つていくことはたしかです。

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[p. 215]

いじけた形で生き残るかもしれない。食物が不足し、汚染過多で。しかし生き残るでしょう。何といっても人間の大きな特性は、考え、計画する力、そうして考えを伝え、後の世代に送る力にある。生命と自然の質が何かと脅威にさらされているとき、問題解決の偉業をなしとげるような頭脳と善意の持ち主は十分いると思っていま す。

eind〔註1〕
この奨学金のための作文を、サー·ジュリアン·ハックスレーが書いたのは二十世紀の初頭である。
eind〔註2〕
カル力ッタには著者もしばしば行ったが、ここで読者にすすめたいのはマルカム·マガリッジ著『神のために美しいことを』 (ー九七ー年) である。本書はューゴスラビアの尼傾「カルカッタの尼傕テレザ」のことを畲いたもので、彼女はー生をカルカッタの贫しき者、死に ゆく者のために働いた。
eind〔註3〕
『人口論』は二ュー·アメリカン·ラィブラリーのー册で、トマス·マルサス、ジュリアン·ハックスレー、フレデリック·オズボーンの三人の論をあつめたもの。

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