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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen (1973)

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Titelpagina van ‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen
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‘Seicho no genkai’ o meguru sekai chishikijin 71-nin no shogen

(1973)–Willem Oltmans–rechtenstatus Auteursrechtelijk beschermd

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26 バリー·コモナー

バリー·コモナー (Barry Commoner) 教授は、ー九ー七年二ユーョーク市で生まれた。 コロンビア動物学ヵレジを卒業後、ー九四一年、ハーパード大学から動物学の博士号を得た。一九四七年、ミズーリ州セントルィスのヮシントン大学に植物生理学の助教授として赴任した。一九六五年から六九年にかけては、同大学の植物学部長をつとめ、ー九六九年には同大学の自然システム生物学センターの所 長に任じられた。

ー九六六年に、『科学と人類の生存』Ga naar eind〔註1〕を発表した。最近の著作には『閉じる澦-自然、人間、技術』Ga naar eind〔註2〕(一九七一年) がある。

 

『成長の阪界』に対するあなたの感想は。

 

報告を検討してみたところ、科学的にみてひじょぅに重要な欠陥があることがわかりました。『成長の限界』で用いられている方法というのは次のようなものです。まず世界の資源·環境危機に関連するさまざまな変数の歴史的趨勢についてのデータをあつめます。次に、これら変数の値を予測するための力ーブを数式の形で与え、コンビュータの中でそれぞれの式を相互作用させます。さまざまなパラメーター-たとえば人口增加、食播の尹用可能世、技術の発展などーを相互作用させるしかたが、 もちろん、コンビュータ·プログラムのいちばん肝心の部分です。そこで、コンビュータ·ブログラムをつくるに当たってどのような相互作用のメカニズムがとりあげられたかという問題が、決定的に重要になります。ローマ·クラブの報告窬を調べてみますと、各要素間の相苴作用は、各界の指導的権威との討論や文献の調査によって決定されたものだという、ひじょうに簡単な説明があるにすぎません。採用された相互作用は、ある一連の変数、すなわち経済的要因と社会的要囚を、まったく無視 したものになっています。これらの要因を除いてしま

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うことによつて、コンビュータのソフトウェア、つまりブログラムが、経済的諸要因によって閲係を変化させる可能性を含みえない性質のものにされてしまったのです。

ひじょうに簡単にいえば、経済的情報がコンビュータにはいってこなければ、コンビュータからは経済問題に関係しない答しかでてこないのだ、という点が問題なのです。コンビュータ·プログラムがそのように畨かれている結果、そういうことになってしまうのです。私が用いてきた方法はまったく逆です。私は汚染の水準や汚染の規模その他について歴史的趨勢を観察しました。そしてこれらの趨努によって、それらの諸要因間のどのような相互作用が姿を現すことになるか、を問題にしました 。この点は私の書物『閉じる環』Ga naar eind〔註3〕に述べられています。

ご存知のように、私の研究の結果によれば、アメリヵ八合衆国のような囯では、汚染の急速な增大の主要な要因は、人口の増大でも、一人当たり消费の成長でもなく、生産技術の変化です。そしてこの生産技術の変化は、経済的原因によって、つまり生産性と利润をあげようとする欲望によって、支配されてきたものなのです。そこで私は、ァメリヵにおける汚染の危機の主要な推進カは緙済的なものである、という結論に導かれました。したがって、主たる対策は経済の分野でもとめられなければ ならない、ということになります。この分野こそ、まさに、MIT構想がその結論において避けているところです。いいかえれば、メドゥズの設計によって行なわれた計算全体に本質的なのは、汚染を処理するのにもっとも重要な要因であることが私のデータによって示されるもの、すなわち経済的要因、を除去しているということです。したがって、科学的な理由から私は、メドゥズによって用いられた分析手法は不可避的な誤りを内蔵している、と結論せざるを得ません。

 

「環Ga naar margenoot+を閉じる」ことにならないというわけですね。そのさい、nンピュー夕·モデルが有効な手段となリう ると考えていらっしゃる......。

 

いいえ。私は、現在のところコンビュータ·モデルはむしろ誤解を生じさせるものだ、と思います。なぜなら、コンビュータ·モデルでは、厳密な数学的表現の与えられないような情報はみんな除外する、といった形でデータを速択せざるをえませんから。われわれにとって

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は、データをつみあげておいてそれについて考えることのほうが、データをコンビュータにまかせてしまうより、はるかによぃのです。私の経験では、問題の理論的基礎を不十分にしか理解しないでつくられたコンビュータ·モデルは、無用であるというだけでなく誤解をもたらすものです。メドゥズの研究は一歩後退になってしまいました。その理由をこれからご説明しましよう。まず第一に、成抉には限界があるということを主張するためには、コンビュータを使う必要などありません。私も 含めて多くの生態学者が生態字の理論的基礎や生物空間の特性に注意を払うならば、生物空間の開発の拡大には限度があることは絶対に明らかである、と繰り返し繰り返しいってきました。

したがって、報告の主要な結論である成長に限界があるということは、いまさらいうまでもないことなのです。その結論の基礎はコンビュータによる分析だと思われています。しかし、コンビュータによる分析はたいへんまちがっており、誤解を招くものであって、このわかりきった結論にさらに一連の娯った結淪を付加する結果になりました。だから私は、ある意味で、メドゥズの研究が果たしたことはじつさいにはー歩後退だと思うのです。つまり、それは古い結淪をとりあげて、それに誤った 意味、誤った塗装を施したからです。

そして、世界の問題を解決するうえでの基本的な問題点は成長の抑止である、と人々が感ずることは、私の兒解によれば、誤りで-われわれが永久に成長を続けることができないこと自体は明らかですけれども、問われなければならない問題は、われわれの今日の困雉の理由は何かということです。もし人々が行勒に移ることが望ましいのであれば、なぜわれわれは困雉におちいったのか、それに対して何がなされなければならないのか、を理解することが必要です。今日環境に生じている困雉は、わ れわれが成長の限界に到達したために生じたのだ、とみなす証拠は何もありません。いいかえると、たとえばアメリカでの生産の增大には、周知のように限界があるとすれば、その限界近くの点にまで成長してしまった場合にはわれわれが現境面での困難に直面する可能性があることは明らかです。しかしそれが現在のアメリ力でみられる環境災害の理由ではないのです。たとえば、なぜわれわれは電力生産の面で困難に直面しているのでしようか。過去をふり返ってみましよう。電力生產はひじよう に急速に増加し統け汚染の主要原闪となって

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います。生産が急増した理由の一つは、鉄やその他の金属からアルミニウムへの生産の転換がなされたことです。アルミニウム生産のほうがはるかに多くの電力を必要とします。それでは、なぜわれわれは鉄からアルミニウムに転換したのでしょう。鉄がたりなくなったからでしょうか。ちがいます。それはアルミニウムを生産するほうが鉄をつくるよりも利润があがり、われわれの競争社会ではより多くの利瀾がえられるところに生産がうつるものだからです。

私がはっきりさせようとしているのは、われわれのこうむっている災雉の理由は成提の限界に近づいたことにあるのではない、という点です。災難の理由は、われわれが気ちがいじみた反生態学的な技術を開発してきたことにあります。もし、われわれが世界中の食物をあつめて公正にそれを世界の人々にわけるとすれば、だれも飢えたりはしないだろうと私は思うのですが、そのことからただちに、飢餓の理由は十分な食物がないためではないということがわかります。真の理由は、われわれが食 物を公正なやり方で分配していないということです。そこで経済的、政治的問題が生じます。だから私はMIT報告を一歩後退とみるのです。それは、限界が存在するものだという抽象的で一般に受け入れられた考えをとりあげて、誤ったやり方で目先の状況に適用しているのです。そりいうことでは、人々に、なぜ自分たちが今日困難におちいっているのかについて誤解を生じさせることになる、と私は思います。私はまた、ローマ·クラブが、この報告にー種の政治的支援を与えることを決め、その結果 、多くの人にその考えを、科学的根拠について検討する機会をもたないまま、受け入れる気持ちにさせてしまっていることを、ひじょうに残念に思います。

 

あなたは『ヘラルド·トリビューン』Ga naar eind〔註4〕で、環境の危機が、今日、世界でもっとも危険な政治問埋だと述べておられるわけですから、政治的危険性もあると考えるのですね。

 

そうです。ローマ·クラブの報告がたどった道は、環境問題が危険な政治問題になりつつあるという私の言葉の意味することの一例だと思います。もし、この研究にもとづいて、環境の危機を解決する唯一の方法は消费と人口をきりつめることだ、という結論に連するとすれば、ィギリスに推力主義的体制をしき、人々がどこに住むか、どこに家をたてるか、などについて命令するとい

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う方式の、『ィギリスにおける生存維持のための靑写真 』Ga naar eind〔驻5〕の例で示されているやり方と大差ないことになるという気がします。いいかえれば高度に組織化された体制、彼らのいい方によれば交響楽団のようにまとめられた体制、になるわけです。もちろん、何が行なわれなければならないかを決定することは必要です。しかし、政治的にひじょうに危険なのは、計画が国民の生活に対するきわめて厳格な統制の方向へ、だれがその統制の任に当たるのかはー言もいわずに、おし進められることです。私の見解で は、この種のやり方は生態学の概念をいつてみればファシストの利用に供するものです。

 

あなたは、アメリカの資源の正しい合理的利用のためには、古典的なマルクス主義の意味での国民経済の社会化が不可欠だと感じますか。ビー夕ー·L·パーガーが「社会主義への隠れた計画表」Ga naar eind〔註6〕とよんだものですが。

 

環境の危機から得られた主要な教訓は、生物空間が、エ菜生産にとつても農業生産にとつても、不可欠の生産的資本を意味するものだ、ということです。また、生物空間が必然的に社会共有の財であることも明らかです。空気や水を分割して、それを私人の所有にふりわける、などということはほとんど意味をもちません。われわれが今直面している問題は、私が私の著畨のある窣で強調した、私自身かなり重要な新しい考えだと思っていることに関連しています。あらゆる既存の経済理論が、-資本 主義的理論にせよ、社会主義的理論にせよ、-生産のキ主要因である生物沒間を無視しつづけてきたことが、はじめて明らかになったということです。ですからある意味で、社会主義理論も資本主義理論もともに、重要な要因を見すごしているのです。もし方向転換してこの新しい要因を二つの理論に組みこもうとすれば、私企栗経済という考え方は生態学的緊急性と激しく衝突することがわかる、というわけです。古典的なマルクス主義の意味での生産の人間的組織が社会化されるというだけでなく、 資本の一部である生物空間が現に社会的に共有されているという時に、私有を基準として所有関係を組織するといっても、それがほとんど意味をもちえないことは明らかです。いいかえれば、私が『閉じる環』で述ベたように、私企菜ないし自由企業は、自由であるかもしれないが、全面的に私的なものではありえない、ということです。なぜなら、あらゆる私企業は社会的な財で

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ある生物空間を利用しているのですから。したがって、生産手段の社会的所有にもとづく生座システムのほうが、私的所冇にもとづく生産システムよりもいっそう適切であると考えられましよう。その意味で、生産手段の社会的所有、すなわち社会主義という古典的なマルクス主義の考え方は、私的所有を含む方式よりも、生物空間の要諸にはよりよく適合しているように思われます。「ソ連で公害がおこっているのはどうしてなのか」と人はかならずききます。その理由は、ソ連でもアメリカと ちようど同じように、生物空間が不可欠の生産要素であることが無視されてきたからです。アメリカでは、経営者はより多くの利潤を求めましたが、ソ連では、経営者は生產割当てを達成しようとつとめました。しかし、生産計画の連成にさいして、しばしば、彼らは、随伴する汚染の問題に気を配らなかったようです。両国で環境汚染を阻止する必要性が明白にされてきた現在では、ソ連のほうがアメリカよりも目的達成が容易だろうと思います。アメリカでは、すでに、事業家たちの利潤に対する 欲望と、労働者の職に対する欲望、そして人々のきれいな環 境に対する欲望との間に深刻な衝突がある、ということ が明らかになっています。多くの地方で、産業公害を低下させようとする圧力のために人々が職を失っています。利潤への欲望と労働者の欲镇との間の衝突は、われわれが環境浄化を試みるにつれて激化していきそうです。

 

どのような行動になって現われるでしょうか。

 

私がニ冊の 本Ga naar eind〔註7〕でくわしく述べましたように、ここでの問題は科学の問題ではありません。それは政治問題であり価値判断の問題です。あなたは原子力発電所から得られる価値と放射能から生ずる災害とを比較考量して判断を下さなければなりません。それはもはや科学の問題ではないのです。その判断を下すためには、博士号をもっている必要はありません。それに関係する特殊な職業についている必要もありません。あなたが必要としているのは事芙の理解と人間の良心です。世界中 のあらゆる人がその良心を行使する権利をもっている、というのが私の考えです。大部分の人にとって、これらの問題について決定を下そうとする場合の妨げになるのは、彼らが必要な事実を入手していない、ということだと思います。そこで、私見によれば、科学者、専門家の役割りは、世界の人々が必要な事突を人手できるようにとりはから

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うことです。私は喜んで人々の決定にまかせます。私はぺッチェィ 氏Ga naar eind〔註8〕や、各国首相のうちにいる彼の友人たちの決定にまかせるつもりはありません。私の意見では、彼らは世界の良心をリードする権利を与えられてなどいないのです。認識しなければならないのは、われわれが新しい政治情勢に直面しているということです。われわれはこれまで生活の重要な側面を無視してきました。それが、今、われわれの思考の中に、再び導入されつつあるのです。私は全世界の民衆の理解と意見にもとづいて判 断が下さるべきだと思います。人々がいったいどんなふるまいをするょうになるだろうか、とあなたはききたいかもしれません。どうなるか私にはわかりません。人々は、一たん状況を理解すれば行動の道を開いていくものです。ベッチュィ氏と論争したさい、私が指摘したことは、彼は首相述や科学者達に信犋をおいているのであり、私は普通の人の數知に信頼をおいているのだということでした。どちらが正しいかいずれわかるでしょち。

 

しかしペッチェイは、ジャーナリス卜やマスコミにも信をおいています。あなたは、人間の良心をめざめさせるのに役だちうる人々のヴループの中にジャーナリス卜も加えますか。

 

ええ、もちろんおっしやるとおりです。アメリカでは、その点はひじょうにはっきりしていました。私たちは科学者の間で一つの運動を行なっています。科学者広報協会というもので、情報を公衆に広げるためのものです。われわれは報道機関やジャーナリストから莫大な助力を得ています。ここでの政治的争点は、私たちが民衆を倍頼するのか、それとも政治家逹の意見を動かそうとしなければならないと感ずるのか、ということです。私は民衆を但頼するほうをとります。

eind〔註1〕
邦訳『科学と人類の生存』安部軎也·半谷高久共訳、講談社 (一九七一年)
eind〔註2〕
邦訳『なにが環境の危機を招いたかー工コロジーにょる分析と解答ー』安部畜也·半谷高久共訳、講談社 (1九七ニ年)
eind〔註3〕
前出。註2參照。
margenoot+
ね
eind〔註4〕
「人間の自然に対する負い目は、ビールのあき缶の再循環くらいでつぐなわれるものではない」International Herald Tribune, June 5, 1972, page 8.
eind〔驻5〕
対談3くヤン·ティンペルへンVの註6を参照。
eind〔註6〕
ビータ一·L·バーガーは二ユージヤージー州、ラトガーズ大学社会学教授。Bertrand de Jouvenel, The Ethics of Redistribution, Harper and Row, 1952. の軎評の一節。Fortune, October 1972, page 154 に所収。
eind〔註7〕
前掲。註1と註2の二書。
eind〔註8〕
対談70くアウレリオ·べツチエィン参照。ローマ·クラブ会長。

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